季語道楽(49)虚子中心、俳句運動史のおさらい 坂崎重盛
大正から昭和前期、日本の俳壇に「ホトトギス」王国を築いた観のある、その主導者・高浜虚子の「客観写生」「花鳥諷詠」にあきたらなくなり、それに反旗をひるがえすことになる水原秋桜子と、それに呼応した山口誓子の歳時記にふれるまえに、季語、定形に関わる「子規以後の俳句運動史」を、ざっと、たどってみたい。
江戸末期の俳諧世界の、通俗的、知的遊戯に傾いていた句を―ー天保以後の句のほとんどは卑俗、また陳腐で見るに耐えない。これを「月並調(ル つきなみちょう)という――と正岡子規は批判、俳句革新にのりだす。
これまでの連句は、“座の文芸行為”であり、“個人の創造活動ではない”として、子規は連句の第一句・発句を独立させ、「俳句」とすると主張。また作句の基本的姿勢を、抽象的イメージの表出や言葉遊びではなく、自然や事物に対する「写生」を重んじることを提唱した。
江戸俳諧から近代俳句への夜明けである。子規の主宰する「ホトトギス」には彼の俳句観、活発な行動に共鳴した若い才能が集まってくる。同郷・松山の高浜虚子と、その学友であり、同じ部屋で暮らすほどの親友でもあった河東碧梧桐。子規より年長だが、子規によって俳句の道に入る内藤鳴雪や文芸仲間の夏目漱石や鈴木三重吉ら。
とくに虚子と碧梧桐は、子規のもと、「ホトトギス」の「二俊秀」と目されるが、虚子が漱石の文学―ー(「吾輩は猫である」は「ホトトギス」に連載)―ーに影響され、俳句から離れ小説の創作に没頭する間、一方の碧梧桐は、「写生」一辺倒の句から脱却した「新傾向俳句」と呼ばれる俳句運動をおこし、俳壇で大きな勢力を得ることとなる。
これに危機感を抱いた虚子は、ふたたび俳句の世界に立ち戻り、「客観写生」さらには「花鳥諷詠」をスローガンとして復帰をはたす。
碧梧桐の近くには萩原井泉水がいた。碧梧桐より一まわりほど年下の井泉水は、碧梧桐による「新傾向俳句」の影響下にあったが、明治四十四年に句誌「層雲」を創刊、「自由律俳句」を唱えることとなる。碧梧桐もこれに加わるが、のちに離脱。井泉水の下からは、尾崎放哉、種田山頭火という、今日も熱烈なファンを持つ、異能の俳人を輩出する。
「新傾向俳句」を看板に、俳壇を制したかに見える碧梧桐らの活動に、小説の筆を置いて句界に復帰、危機感を抱いた虚子は、これを看過することはできぬ、と、ふたたび「ホトトギス」を拠点に、自ら「守旧派」と名乗り出て、伝統的俳句の精神の必要を情熱的に訴え、旺盛な活動に専念することとなる。
そのスローガンの二本柱が、すでに記したように「客観写生」であり、さらに「花鳥諷詠」となる。
これまでの俳句運動の流れの中での登場人物と、組織した結社や主宰句誌、そのスローガン、キャッチフレーズ、また例句のほんの二句だけ挙げておこう。
- 正岡子規 一八六七年(慶応三年)〜一九〇二年(明治三十五年) 「ホトトギス」のもと「写生」を提唱。陸羯南(ル くがかつなん)を主筆とする新聞「日本」の俳句欄の選者で「日本派」として明治俳句界をリード。
鶏頭の十四五本もありぬべし
若鮎の二年になりて上りけり
- 河東碧梧桐 一八七三年(明治六年)〜一九三七(昭和十二年) 虚子と
ともに子規の二大弟子の一人。子規の没後、新聞「日本」の俳句選者を引き継ぐ。しかし、虚子の客観写生の姿勢を、ともすれば、単に目に入った自然、光景を写しとっただけの内容のないものとなるとし、個性の発揮、現実生活への視点を重視する「新傾向俳句」をスローガンに全国を歴訪、大きな運動をまきおこす。大正二年、虚子の俳壇への復帰を機に虚子と対立、その後、定形の句から脱する「自由律俳句」へと進む。大須賀乙字、萩原井泉水、井塚一碧楼らを輩出。
赤い椿白い椿と落ちにけり
弟を裏切る兄それが私である師走
- 高浜虚子 一八七四年(明治七年)〜一九五九(昭和三十四年) 碧梧桐
とともに子規のもとの双璧。子規の没後「ホトトギス」を継承。すでに記したように一時、漱石の影響もあり、小説の創作に専念するが、碧梧桐らの「新傾向俳句」に対し、伝統俳句を死守すべく大正二年俳界に復活。有季、定型の「客観写生」また「花鳥諷詠」を強力に提唱、女流俳人のプロデュースを含め「ホトトギス」を再興、たちまち俳壇の中央を占める。
春風や闘志抱きて丘に立つ
遠山に日の当たりたる枯野かな
- 萩原井泉水 一八八四年(明治十七年)〜一九七六(昭和五十一年) 碧
梧桐の「新傾向俳句」に先立つ明治四十四年に「層雲」を創刊、これに年長の碧梧桐も参加、「自由律俳句」運動をリード。ここから尾崎放哉、種田山頭火が出る。
月光ほろほろ風鈴に戯れ
たんぽぽたんぽぽ砂浜に春が目を開く
ちなみに、放哉は
咳をしても一人
いれものがない両手で受ける
山頭火は
わけ入っても分け入っても青い山
うしろすがたの しぐれてゆくか
の句で、今日も一般に知られる。
と、ここまで明治以後、子規から碧梧桐、虚子、井泉水とたどってきたが、大正、昭和の俳句界に君臨したドンといえば、やはり虚子だろう。その大虚子に反旗をひるがえす俳人が昭和前期に登場するが、それを計らずも準備したのが虚子率いる「ホトトギス」王国の「四S」の存在だった。
「四S」とは「ホトトギス」にあった水原秋桜子、山口誓子、阿波野青畝(ル せいほ)、高野素十(ル すじゅう)の四人。とくに秋桜子と誓子は、東京大学出、秋桜子は医学部、誓子は歯科を専攻。二人とも卒業後、医療の現場の要職を歴任しながら「ホトトギス」での活動にもめざましいものがあった。この二人のうち、先導を切ったのが秋桜子。
直接のきっかけとなったのが、師・虚子の「客観写生」の忠実な信奉者・高野素十の「草の芽のとびとびのひとならび」の句を評価した虚子に対して――素十のこの句は単なる瑣末主義の「草の芽俳句」だ―ーと「ホトトギス」の写生俳句を批判、虚子と決定的に対立、虚子の下を離脱することとなる。この秋桜子の行動に、もう一人の「ホトトギス」の「四S」の一人、誓子も行動をともにし、「新興俳句」誕生の因となる。
秋桜子の句として、
来しかたや馬酔木(ル あしび)咲く野の日のひかり
啄木鳥(ル きつつき)や落葉をいそぐ牧の木々
誓子の句
ピストルがプールの硬き面にひびき
かりかりと蟷螂(ル かまきり)蜂のかほを食む
海に出て木枯帰るところなし
ここで、大正、昭和初期の俳壇史における、虚子の名プロデューサーぶりの一例を記しておきたい。それは女流俳人の輩出である。
大正二年、虚子は「婦人十人集」と題しての欄を設け、婦人俳句会を発足させる。このなかから、長谷川かな女、竹下しづの女(金子兜太さんがファンだった)、阿部みどり女、高橋淡路女(ル あわじじょ)、そして情熱の俳人・杉田久女、らが俳壇の内外に名をとどろかせる。
後の、キャッチフレーズにならえば、この五俳人、すべて俳号が「女」で終わっているので、「五J」といいたくなる。
それはさておき、彼女たちの例句を一句ずつだけ挙げておきたい。
長谷川かな女
羽子板の重きが嬉し突かで立つ
竹下しづ女
短夜や乳ぜり泣く児を須可捨焉乎(ル すてちまおか)
阿部みどり女
空蝉のいづれも力ぬかずゐる
高橋淡路女
散り牡丹どどと崩れしごとくなり
杉田久女
旅つぐやノラともならず教師妻
大正期の女流俳人のあと、昭和前期、それを引きつぐかたちで、ふたたび虚子の「ホトトギス」から新しい感覚の才能が登場してくる。「ホトトギス」女流俳人の俊英「四T」である。
三橋鷹女(たかじょ)、橋本多佳子(たかこ)、中村汀女(ていじょ)、星野立子、の四人。例によって彼女たちの句を。
三橋鷹女
夏痩せて嫌ひな物は嫌ひなり
橋本多佳子
白桃に入れし刃先の種を割る
中村汀女
外にも出よ触るるばかりに春の月
星野立子
父がつけしわが名立子や月仰ぐ
この星野立子はもちろん虚子の愛娘。虚子の著作に「立子へ」と題する、虚子の俳句への思いを伝える、虚子を語るとき、よく引かれる一冊がある。
その立子のこの一句。「父がつけしわが名立子や月仰ぐ」——すぐわかるように虚子の提唱した定型、五七五ではない。定型にしようと思えば、すぐに可能な句である。「父つけしわが名立子や月仰ぐ」としてもよい。しかし、彼女は五七五ではなく、ご覧のように、敢えて、六七五とした。
虚子はどう思ったのかしら。興味ぶかい。
それはともかく、女性俳句作家たちの誕生までプロデュースした虚子、また、ひとくせも二癖もある男性の俳句創作者たちをも含めて、「ホトトギス」を拠点として、たばねて、リードした虚子の組織力、また経営力は想像を絶する、といってもいいだろう。大悪人、大頭目の大虚子、とも言いたくなる。
子規と虚子がいなかったら、今日の俳句は、また歳時記はどうなっていたのだろうか。