三角ベース
森 紘一
昭和25~26年ころ(わたしの小学生時代)、横浜の下町には空き地があちこちにあった。メンコやベーゴマ、相撲や竹馬乗りなど、近所の子どもたちと暗くなるまで遊んだものである。なかでもバットを使わない、三塁ベースのない、ゴムボールを手で打つ「三角ベース」は1番の人気だった。
下町の空き地は、駆けずり回る子どもたちの歓声や拍手でいつも賑やかだった。そこには大人たちとは無縁の子どもたちだけの世界があった。
当時、プロ野球は昭和25年(1950)からセ・パ両リーグ戦となり、セの
覇者松竹ロビンスの小鶴誠が本塁打を51本打って話題となっていた。和製デ
イマジオと呼ばれた小鶴誠は、子どもたちにとって神様だった(わたしにとって
もまさに憧れのスター選手だった)。
そのご、広島カープに移籍した小鶴誠は、引退まで広島カープでプロ生活を送
っている。そんなご縁(?)で、以来わたしもささやかながら、カープファンと
して今日に至っている。
昭和33年(1958)に、横浜公園内のフライヤージム(懐かしいかまぼこ型の体育館)跡地に横浜平和球場が完成すると、浜っ子の野球熱はますます高まる一方だった。大洋ホエールズから今のDeNAベイスターズまで、フランチャイズとして地元の野球ファンに愛されている。
連休さなかの5月2日、広島出身のカープファンの知人に誘われて横浜スタ
ジアムへ出向いた。カープ対ベイスターズの3連戦のカード頭である。三塁側の
ビジター席が赤ヘルファンで埋まっているのにはいささか驚いた。
外野席の奥に、さらに特別席が設けられ、この日も収容人員は3万2千人を超
えているという。今日の対決に心を躍らせながら、めざすはリーグ優勝であり、
日本一である。
3年間のコロナ禍もようやく癒えて、横浜スタジアムでも鳴り物入りの応援
合戦が復活している。ここでは、老いも若きも声を張り上げて一心不乱の応援
ぶりである。
球場に見るその姿は、あどけない。かつて「三角ベース」に興じたそのままで
ある。『大人たちは、まるで子どものままである』かのようだ。
元・小学館 関連会社「メディア・レップ」代表
おとなはみんな子どもだった