トンビやウグイスがいた、あの日
草野頼子
六十年ほど前、まだ私が幼かったころ、好天の青空にはときおりトンビが滑空していました。春先になると庭の木にウグイスがやってきて、ケキョケキョと拙かった鳴き声はやがてホーホケキョと立派になっていきました。
また、ヌシのような大きなガマガエルが池を悠々と泳いでいたり、庭に大きな蛇の抜け殻があったりしました。雨上がりの水溜まりに泡のようなカエルの卵があり、夏になると庭の隅にあるケヤキの木でアブラゼミがうるさいほど鳴いていて、やがて蝉の音はツクツクホウシやヒグラシに変わりました。祖父が迷い込んできたコウモリを捕まえたこともありました。
地方都市の話ではありません。私の家はJR山手線の内側、東京都豊島区雑司が谷にあります。
小学生のころまでは、雑司が谷は都会ではありませんでした。私が生まれる少し前までは家の崖下は牧場で、歩いて五分ほどのところにある児童公園の場所は大根畑だったそうです。さすがに牧場や畑はなくなり、一番近いターミナル駅の池袋には東武デパートと西武百貨店、二〇〇九年に撤退してしまった三越と、大きなデパートが三つ、山手線、西武池袋線、東武東上線と三路線の電車が乗り入れていましたが、駅から少し離れた住宅街である雑司が谷にはビルやマンションなどなくて、戦後に建てられた木造家屋が建ち並んでいました。東上線には床が木製の電車が走っていて、小学六年のころに首都高速五号線の建設が始まる以前には、池袋東口から文京区役所まで走っていた都電が池袋に行く唯一の交通手段でした。
五歳上の兄は活動的で生き物が大好きな子どもで、神田川にザリガニ取りに行ったり、子どもの足では徒歩二十分ほどかかる学習院の森まで遠征してカブトムシを取ったりしていましたが、私はそんな兄とは行動を共にすることがほとんどありませんでした。幼少期の五歳の体力差は大きかったから、兄は足手まといになる妹を連れて出かけることを良しとしなかったのだと思います。
そんなわけで、私は幼稚園から小学校低学年まで完全なインドア派で、母や祖母、数少ない幼稚園の友だちとおままごとをしたり、独りで当時流行っていた「きいちのぬりえ」で遊んだりしていました。
ちょうどそのころバービー人形が売り出され、五年後にリカちゃん人形が売り出されました。私はなぜかバービー人形を買ってもらい、祖母や親戚のおばさんから既存の着せ替えセットをいくつか買ってもらいましたが、端切れの布や折り紙で洋服を作って着せたりして遊んでいました。ハイヒールを履かせないと立てない、つま先立ちのままの金髪で青い眼をしたバービー人形は、自分の周囲には存在しないどこか異世界の人のようにも感じましたが、嫌いではありませんでした。小さなタンスや、ちょうどバービーが使えるようなソファセットなどを縁日で買ってもらい、一人遊びを満喫しました。
幼稚園のころの忘れられない記憶がふたつあります。
ひとつは、父が単身赴任で仙台にいて、夏休みに家族で父の住むアパートに行っていたときのことです。海水浴に出かけてボートに乗ったとき、岩礁にぶつかって大きく舟が揺れ、私は海の中に投げ出されました。ボートには父と母、兄も乗っていたと思います。泳げるはずもなく、海の中で息ができないことも知らなかった私は、思いきり鼻や口から塩水を飲んで沈んでいき、苦しい中で、なぜか頭上にキラキラした水面を感じました。
ほんの数秒のことだったと思います。海がどれくらいの深さだったのかわかりません。すぐに父が海に飛び込んで私をすくい上げてくれ、鼻や口から入った海水をゲホゲホと吐き出しました。沈んでいたときよりも、引き上げられた後のほうが辛かった記憶があります。
もうひとつは、よく晴れた日の午後、祖母の家の日当たりのよい縁側でのできごとです。祖母と母はおしゃべりに夢中になっていました。傍らで独りおままごとをしていた私は、子供用のまな板を使って本物の小さな果物ナイフで庭から取ってきた草花を切っていました。そして、誤って自分の指を切ってしまったのです。
とっさに叱られると感じて、傷から血がじんわりと流れるのを呆然と眺めていました。不思議と痛みは感じませんでした。鼻歌を歌いながら遊んでいた私が急に黙り込んだことで、祖母と母は私が指を切ったことに気づき、慌てて手当をしてくれました。幸い傷は浅く、叱られることもありませんでした。暖かな日だまりが強く記憶に残っています。
小学校になると、同級生の家でトランプをしたりツイスターというゲームをしたりして遊びました。どこの家でも玄関に鍵などかけていなかったので、学校で遊ぶ約束ができなかったときは勝手に玄関を開けて「遊ぼ!」と大声で友だちを呼びました。毎日のように、歩いて二十分ほどのところに住む友だちの家まで遊びに行くことも多くなりました。
通っていた小学校は護国寺の墓地の中にあります。旧陸軍墓地跡を買収した土地に建てられたもので、窓枠の外に兵隊さんの格好をした人がしがみついていたとか、学校が護国寺から僧侶を呼んで供養したとか、まことしやかな怪談話が子どもたちの間で密かに語られたこともありました。怖さがないわけではありませんでしたが、日ごろから雑司ヶ谷霊園を遊び場にして、門やベンチが設えてある立派な知らない人の墓で友だちと遊んでいた私にとっては、ホラー漫画に出てくる蛇女ほど怖くはありませんでした。
小学校のころ、新潟出身の祖母から教わった手まり歌があります。
《一番はじめは一の宮、二は日光の東照宮、三は佐倉の不動さま、四には信濃の善光寺、五つ出雲の大社(おおやしろ)、六つ村の鎮守さま、七つ成田の不動さま、八つ八幡の八幡宮、九つ髙野の弘法さま、十は東京の招魂社》
同じく新潟出身で子どものころに寺に修行に出されたという祖父が一行ずつ教えてくれた、浄土真宗の「正信偈(しょうしんげ)」というお経も、途中まで暗唱することができます。
幼いころ何気なく覚えたことは、今でも頭の中に刻まれています。
護国寺や雑司が谷あたりには、明治時代に夏目漱石や菊池寛など多くの文豪が住んでいました。窪田空穂が「護国寺の山門の朱(あか)の丸柱 強きものこそ美しくあれ」と詠んだ護国寺仁王門は、夏目漱石の『夢十夜』にも書かれ、雑司が谷は『こころ』に登場します。
広大な雑司ヶ谷霊園があり、今でも思いのほか緑豊かな場所ですが、幼いころに見たトンビやウグイス、コウモリは、おそらく高速道路の向こう側にある文京区の豊島岡御陵からやってきていたのでしょう。都会で住処を追われた鳥などが、最後の安息地として生きていたのです。今はもう、トンビもウグイスもいなくなりました。
道路沿いには高層マンションが建ち、古い木造家屋はどんどん壊されていきます。それでも、雑司ヶ谷霊園を歩くと彼岸花の群生があったり銀杏並木があったりして、野鳥の囀りが聞こえることもあります。雑司が谷にはまだ自然豊かな場所が残っているのを嬉しく感じながら散歩するのが、私の日課になりました。
元・双葉社 編集者
おとなはみんな子どもだった