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“11月21日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1940=昭和15年  黒部川第三発電所に送水する仙人谷ダムが難工事の末に完成した。

当初の計画では、仙人谷よりもさらに5 km上流の「十字峡」付近に建設される予定だったが1934=昭和9年に黒部峡谷一帯が国立公園に指定されたため現在地に建設されることになった。資材運搬には黒部専用鉄道(現・黒部峡谷鉄道)のトロッコ電車が使用されることになっていたが、欅平より上流は標高差が250 メートルで勾配24分の1にもなり非常に急峻のためトロッコ電車では上れなかった。そこで欅平に高さ200mの縦坑を掘りトロッコ運搬用のエレベーターを設置して隧道を掘削した。

工事は1936=昭和11年9月に開始され、仙人谷-阿曽原の第一工区、阿曽原-志合谷の第二工区、志合谷-欅平の第三工区に分けられ、第二・第三工区では比較的順調に工事が進んだが、第一工区では本坑工事を開始した翌年から岩盤温度が上昇し始めた。当初は摂氏65度程度だったが翌年7月には100度の大台を突破した。それに伴い、坑内の気温も急激に上昇し作業員の体に黒部川の冷水をホースでかけ坑内を冷却する散水装置を設置するなどして作業を続けた。文字通り「焼け石に水」状態、熱中症で次々と作業員が倒れた。トンネル側壁は摂氏165度にも達したことから「高熱隧道」と呼ばれた。

国家総動員法が発令されていた当時、軍需物資製造のための電源開発は至上命令だった。<人海戦術>で突破するために当時の労働者の平均月収の10倍以上に当たる2時間5円、日当10円という破格の給金を設定して作業員が駆り集められた。切端の装填作業中に地熱でダイナマイトが自然発火する暴発事故が多発し、作業員の多くが死傷した。事態を重く見た富山県警から工事中止命令を出したが国策の電源開発であることで社運をかけた日本電力に押し切られた。

他にも切り立った谷に作られた水平歩道では資材運搬を行うボッカの転落事故が日常的に発生、さらに国内有数の雪崩発生地帯で越冬作業は不可能と言われてきたが冬季の作業休止は許されず、阿曽原谷や志合谷などに作業員が宿泊する飯場が設置された。これらの宿泊施設には当時最新の雪崩防止対策が施されていたが1938年12月には志合谷で大規模な泡雪崩が発生し、直撃を受けた飯場(1・2階鉄筋コンクリート、3・4階木造)の木造部分が峡谷の対岸まで600メートル余りも吹き飛ばされ84人の死者を出す大惨事となった。隧道の貫通後の1940=昭和15年1月にも阿曽原谷で泡雪崩が宿舎を直撃、直後に発生した火災によって死者53人の死傷者を出した。

無謀な工事といわれる半面、岩盤温度が摂氏165度にも達する高温地帯を掘削しトンネルを完成させた事例は世界でも類を見ず、様々な教訓や技術指針がこの難工事によって得られたものの国策の名の下に強行された工事の代償はあまりにも大きかった。特に「高熱隧道」工事での犠牲者は、雪崩の犠牲者も含めると全工区の犠牲者300人余りのうち半数以上を占め、同時期に完成した丹那トンネル工事の犠牲者を大きく上回った。

社運を賭けた日本電力は黒部川水系で最後に建設したのを最後に消滅したが工事用に掘削されたトンネルは現在も宇奈月温泉と欅平を結ぶ20.1キロはトロッコ列車の走る黒部峡谷鉄道として使用され日本土木学会の「日本の近代土木遺産」に認定されている。

*1926=大正15年  横浜市内全域で工場のモーターが1時間40分にわたり<逆回転>した。

原因は変電所でプラスとマイナスを接続し間違ったミスとわかったがそれにしてもなぜ。被害の記事はみつからなかったから実害はなかったのか。電気は見えないけれどモーターは逆に動いたからわかったということだろう。

*1481=文明18年  奇行の禅僧として知られた一休宗純が88歳で亡くなった。

応仁の乱で焼けた大徳寺を再興した。正月には杖の先にドクロを付けて京の町中を「ご用心、ご用心」と叫びながら歩いた。木製の刀身だったが朱鞘の大太刀を腰に差していた。鞘は立派に見えるが抜けばただの木刀ではないか、と外面を飾りたがる風潮をチクリと批判してみせた。親交のあった本願寺門主の蓮如の留守に居室に上がり込み蓮如の念持仏を枕にして昼寝をした。そこへ戻って来た蓮如上人が「わしの商売道具に何をする」といって二人で大笑いしたという逸話も残る。奇行は禅宗の「風狂の精神」に通じるともいわれるが堕落した禅宗に対する一種の抵抗だったとも。亡くなった酬恩庵は通称・一休寺と呼ばれ京都府京田辺市にある。こちらも荒廃していた寺を一休が再興した。

ところで漫画やアニメで知られる「一休さん」の頓智ばなしは戒律や形式にとらわれない生き方が民衆の共感をあたえたことから江戸時代に創作された。
  釈迦といふ いたづらものが世にいでて おほくの人をまよはすかな
  正月は冥土の旅の一里塚目出度くもあり目出度くもなし
  世の中は起きて稼いで寝て食って後は死ぬを待つばかりなり

という狂歌もあるが最後には「まだ死にとうない」といったとか。

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