池内 紀の旅みやげ (3) 三等郵便局
旅の途中、注意しているものの一つに郵便局がある。都市化したところはつまらないが、小さな町や村では味のある建物と出くわせる。たいていは木造で、現在も使われており、戸口に「金利上乗せ実施中!」といった旗が立ててあったりする。
明治初期に郵便制度がととのえられ、全国に郵便局がお目見えした。むろん津々浦々どこにでもいいというわけではなく、町や村の要所にあたるところ。こまかいことは知らないが、郵便局開設にあたり、土地の有力者にゆだねたようだ。民間資本の活用であって、何がしかの元金を国に差し出し、かわりに権利を取得する。エリアを区切っていて、同一エリア内は競争相手をつくらせない。
その際、エリアの大きさや重要度によって一等郵便局、二等郵便局、三等郵便局といったぐあいに等級づけた。天皇を頂点にして何ごとにも位階づけを好んだ明治の世らしい発想である。等級によって、おのずと元金がちがい、郵便局長の社会的ヴァリューもちがっていた。
一等、二等は行政の中心部にあって、局長以下職員が何人もいる。時代とともに建物が建て替えられ、現在は味気ないコンクリート造りが通例である。これに対して三等郵便局は職員がいなくて、家族経営で運営されていた。その家の父と母が職員で、母が窓口にすわり、父が金庫番兼電報や電信係といったケースである。子が成長すると父のあとを継ぐべく見習いになる。母に用向きがあると娘が窓口にすわったりした。
土地の有力者は郵便局開設にあたり土地を提供して、次男や三男、あるいは娘婿に経営をゆだねた。人物,性格なども考えてのことだろう。だらしないのや身持ちの悪いのはいけない。何ごとにも慎重で、お酒を飲んでも晩酌に一合程度、夜遊びなどと縁がなく、裏手の庭で盆栽をいじるのが趣味といったタイプが多かったような気がする。
三等郵便局の内部のつくりは、全国どこもほぼきまっていた。窓は小さく、鉄格子がはまっている。窓口も木の格子で仕切られており、黒い金庫の上に何代前かの逓信(ていしん)大臣による「勤倹貯蓄」の文字が、ものものしい額に入っている。その下で家族職員は両腕に黒い袖カバーをつけ、ペンで通帳に書き入れたり、証書にハンコを捺していた。本局や支局だけでなく「本家」にあたる有力者の監視もあり、世襲で安定していても、さしてたのしい職場ではなかったのだろう。局長はきまって痩せ形、いつも不機嫌そうで、胃病のような青白い顔の人が多かった。
- 恩方郵便局の全景 なにやら懐かしい
八王子市の北部、北秋川に沿って陣馬街道がうねうねと走るあたりは山深い。昭和三〇年(一九五五)、八王子市に編入されるまでは東京都南多摩郡恩方(おんがた)村といった。奥が上(かみ)、入り口が下(しも)と大字に分かれていて、編入後も上恩方町、下恩方町と旧称を踏襲した。
ちょっとした調べごとがあって、高尾駅発一時間に一本のバスに乗っていた。下から上にすすむにつれて、左右から山が迫ってくる。
北秋川が深まって渓流のおもむきを呈してきたころ、前方にシャレた建物が目に入ったので、あわててバスからとび下りた。窓が大きくとってあって、壁のセルリアンブルーはぬりかえてまもないのだろう、屋根と三角屋根の赤いトタンとコントラストがちょうどいい。元三等郵便局の旧型をよくのこしている。
旧恩方村はきだみのるの名著『気違い部落周游紀行』の舞台になったところである。社会学、人類学で知られた山田吉彦は戦争末期、恩方村に疎開してきて、戦後も三年あまり、当地の寺に居候していた。伝統的な村の暮らしや人々の考え方を日本人のモデルケースとしてとりあげて、「きだみのる」のペンネームでオシャレな風刺的戯文に仕立てた。
「村の有力者若干を読者の見参に入れよう」
そうことわって「筆頭(ふでがしら)」の村長から始めている。「金持ちである証拠には住居の冠木門(かぶらぎもん)に××生命保険の黒塗りの金文字の招牌がかかっている」。
上恩方郵便局を建てた有力者かもしれない。すぐ横手に立派な冠木門があって、繁みの奥に母屋がのぞいていた。郵便局は広い敷地の道路ぎわの隅にあって、誕生の由来を告げている。
ごく素朴なものだが、土地の大工が丹精をこめてつくったにちがいない。二階に小さな飾り露台がついている。赤いトタン屋根もトンガリ装飾をもち、玄関の小屋根に小学校のバッヂのようにして白地に赤く〒マークが入れてある。
土曜日のことでシャッターが下りていて中はのぞけなかったが、昔のように格子仕切りはもうないだろう。それでも大臣直筆の文字額があって、週日には父を継いだ局長が、多少ともつまらなそうに職務にいそしんでいるのではなかろうか。
〖アクセス:JR高尾駅よりバスで約三〇分、郵便局前下車〗