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“12月1日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1873=明治6年  「郵便はがき」がはじめて発売された。

二つ折りで一枚5厘、当初は「郵便はがき紙」と呼ばれた。二つ折りでも他人からのぞかれる心配があるとして不評だったが100枚買うと5分=5%引き、200枚以上は1割=10%引きだった。明治32年からは1銭5厘に値上がりしたがその値段は昭和12年まで続いた。

軍隊への召集令状がはがきで通知されたとして「1銭5厘」と呼ばれたと勘違いしている向きも多いが「本人居住地の役場に置かれた兵事係が直接届ける」というのが大原則だった。それなのに赤紙が1銭5厘と呼ばれたのは<命がはがき一枚ほどの軽さ>だったと皮肉られたことからだろう。

児玉隆也の『一銭五厘たちの横町』(晶文社、1975年)には
お好み焼屋「友よし」を経営するおよしさんは「なにしろ三度も一銭五厘のはがきをもらっちゃったんだから。あたしはそのたんびに大黒柱を取られて、戦争貧乏よ。出征のとき、みんな万歳!万歳!っていってたけど、そんなこといえなかったよ、あたしゃ。だからもう戦争など思い出したくなかった」と話し、他にも「兄は一銭五厘でウルップ島に召された」「一銭五厘で招集された兵たちは」と東京・下町で拾った多くの証言が出てくる。

児玉は文藝春秋による一連の田中角栄に関する大特集のなかで『淋しき越山会の女王』を書いて一躍注目を集めたがわずか38歳で肺がんに倒れた気鋭のフリーライターである。だからというわけではないが自らが足を運んで何十日もかけて取材して回った多くの証言で「赤紙」は「一銭五厘」と呼ばれていたのはたしかであろう。いずれにしても紙一枚で運が悪ければ命をお国に捧げなければならない時代だったわけである。

*1949=昭和24年  「お年玉つき年賀はがき」がはじめて登場した。

郵政省から全国一斉に発売されたのは通常の2円のもの3千万枚、共同募金つきの3円のものが1億5千万枚だった。当時は初詣に続いて年始回りというのが通例で、年賀はがきをやり取りするという習慣そのものがなかったから初日の売れ行きはさっぱりだった。景品は特等が高級ミシン、1等が純毛洋服生地、2等が本革学童用グローブで6等は記念切手シートで現在と同じだ。

*1789年  パリの内科医ジョセフ・ギヨタンがフランス国民議会にギロチンの採用を提案した。

提案の理由は「人道的な処刑ができるから」だったが最初は冷ややかな嘲笑で迎えられた。それまでのフランスでは平民は絞首刑、斬首刑は貴族階級のみに執行された。これには斧や刀を使って死刑執行人がおこなったが未熟な場合などは失敗することもあったから裕福な貴族は熟練した執行人を雇うことができた。立憲議会議員だったギヨタンはこれでは苦痛が長引き身分によって不公平だから<苦痛を伴わない処刑器>が必要だと主張した。

設計段階では刃の形は「三日月」だったが設計図を見た国王ルイ16世が「斜めにしてはどうか」と意見を述べたという説もある。まさか本人が自分に使われるのを考えたわけではないだろうが。完成した装置は「ボワ・ド・ジャスティス=正義の柱」と名付けられた。別名「断頭台」「断首台」ともいわれるがその後、人道性と平等性を大いに喧伝したギヨタンの名前から「ギロチン」と呼ばれることになったとされる。ギヨタンはこれには「不名誉だ」と反対したが有名になってしまっていたので家族は名前を変える羽目になった。

ルイ16世、王妃マリー・アントワネット、革命の中心人物ジョルジュ・ダントン、恐怖政治を主導したロベスピエール、受刑者を処刑台に送り続けた検事タンヴィルも他の平民受刑者と<平等に>ギロチンで斬首された。ギロチンによる処刑は公開で行われフランスの植民地だけでなくドイツやベルギー、スウェーデンでも採用された。フランスでは公開処刑が行われなくなった後も1977=昭和52年の死刑制度廃止まで実際に使用され続けた。

*1958=昭和33年  一万円札が登場、日本銀行券としては「一万円紙幣」と呼ばれた。

発行の計画が持ち上がったのは5年前だったがインフレ懸念や釣銭をどうするかで延び延びになっていた。ご記憶の方も多いだろうが表面が聖徳太子で裏面は向かい合った鳳凰、透かしは聖徳太子ゆかりとされる法隆寺夢殿だった。

この年、一流企業の大卒初任給は1万数千円だったからかなり<使いで>があった。物価スライドで考える以上に数十万円かそれ以上の価値があったのではという実感ではないだろうか。高度成長経済の一端をになったこの「C号券」は1984=昭和59年に新たに登場した福澤諭吉の「D号券」に代わり、2004=平成16年には同じ肖像だがホログラム入りの「E号券」になった。

近年「聖徳太子は実在しなかった」という議論がかまびすしいから交代はやむなしだったかもしれないが「万札を拝ませて!」と言わなくなった。そちらは聖徳太子から福澤諭吉に代わったからではなく<感激度合い>がますます軽くなったからだろうが。

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