“12月2日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1804年 フランス皇帝ナポレオンの戴冠式がパリのノートルダム大聖堂で行われた。
この日、雨は降らなかったものの日の光は弱く寒い1日だった。司式者にはわざわざ教皇ピウス7世が招かれ荘厳かつ華麗な式典会場は熱気に包まれていた。それまでのオスマン帝国やロシアを除く欧州の皇帝は教皇から王冠を戴くのが儀礼だったからである。多くの王侯貴族や軍人、政治家などがお妃連れで招待されていたがナポレオンは何と自分から王冠をかぶった。しかも皇后となるジョゼフィーヌにも自ら冠を授けたから教皇は顔をしかめた。これは自らの支配のもとに教会を置くという強い意思を表したものだったからだ。
真贋取り交ぜて多くの逸話が残るナポレオンだがこのシーンは当時の絵画にも残っているからその通りだったのだろう。このあたりが彼の絶頂期だった。イギリス上陸をめざした翌年のトラファルガーの海戦ではネルソン提督率いるイギリス海軍に敗北、オーストリア・ロシア軍との戦いには大勝するなどしたがロシア遠征では敗北してフランスに逃げ帰り、坂を転がり落ちるように落日へと向かっていく。
この戴冠式に関してのもうひとつの逸話はベートーヴェンの交響曲第3番『英雄』にまつわる話である。ベートーヴェンはナポレオンを人民の英雄と期待して当初は『ポナパルト』としていたが戴冠式での振る舞いを聞いて怒り曲名を単に『英雄』に代えたというものだ。それもアリかもしれない。だが彼は終生ナポレオンを尊敬していたとされるから第2楽章のテーマが「英雄の死と葬送」になったことでこれは皇帝に失礼だから曲名を変更したという説、このあたりが順当ではと門外漢としては思うけど。
*1872=明治5年 明治政府がこの日を太陽暦への切替日と決めたため即・大みそかとなる。
政府はあらゆることに「文明開化」をめざすのをモットーにしていたから陰暦=旧暦から太陽暦=新暦への変更は予想されてはいた。しかしまだまだ先と思われていた切替えがこの明治5年に決定されたのには深刻な<裏事情>があった。
それは陰暦と太陽暦の通常年と閏年の違いにある。陰暦でも同じように閏年があるが太陽暦では1日多いだけで12ヵ月なのは変わらないのに陰暦では1ヶ月多い13ヵ月になる。これに官吏の給料が関係してくる。その前の閏年は明治3年で、まだ藩があったから政府の財政にはあまり響かなかった。ところが翌4年の廃藩置県で官吏が<政府丸抱え>になった。官吏の俸給は月給制でしかも明治6年は旧暦なら閏年にあたるから1月分が余計にかかる。さあ大変ということになった。
そこで知恵を絞った政府は新暦への切り替えを急ぐことにした。中心人物の岩倉具視や大久保利通は条約改正の交渉のため欧米諸国を回っており、留守を預かる西郷隆盛や大隈重信らが事務方と急いでまとめあげて即時実施を決めた。
岩倉らは相手国の役人とは太陽暦で、使節の間では陰暦でと使い分けてはいたが面倒臭さに音をあげていた。しかし仕方ないことだとあきらめていたので日本からの報告に初めて「それはいい」と驚いたという。そのくらいの<はやわざ>だった。
1ヵ月分の月給をもらい損ねた官吏のほうも新政府やその方針にはまだ慣れなかったので「そんなものか」と思ったからか大きな混乱はなかったとされる。
*1823年 アメリカの第5代大統領ジェームズ・モンローが「モンロー教書」を発表した。
「米国は欧州諸国に対して干渉しない。だから欧州諸国も米大陸を植民地の対象にすべきではない」という外交の基本政策を表明したもので「モンロー主義」といわれるが当時のアメリカは先住民に対しての攻勢や囲い込みを強めていた時期だったから独立運動の火が燃え上がっていた欧州各国の植民地への中立を表明したことはそれなりの意味はあった。
長い間これがアメリカ外交の基本姿勢となっていくが一方でこれ以上の植民地化を認めないというのは<アメリカ縄張り宣言>でもあり、アラスカへの進出を狙っていたロシアへの牽制でもあった。
*1956年 メキシコに亡命していたカストロ兄弟やチェ・ゲバラがキューバに上陸した。
兄のフィデル・カストロは弁護士、ゲバラはアルゼンチン人の医者だった。弟のラウル・カストロを加えた82人は「グランマ号」などに乗って上陸するが待ち構えていたバティスタ政権軍に包囲されて大半が殺害された。残ったのは12人、山中に逃げ込んでのゲリラ戦を展開していく。キューバ革命への<後半戦>がここから始まった。
革命が成功するのは1959年1月1日、孤塁を守るカストロ議長はいまだ健在である。