“12月3日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1926=大正15年 改造社が社運を賭けて『現代日本文学全集』を刊行した。
値段は当時の常識を打ち破る1冊1円だったから「円本」と呼ばれた。菊判サイズで平均300ページ、同じ時期に富山房から出された全18巻の『模範家庭文庫』が1冊3円80銭だったからその4分の1だ。62巻と別巻年表の全63巻、予約段階だけで23万、総計60万セットの売り上げを記録した。
改造社は大正7年に山本実彦が創業した。総合雑誌『改造』を発行し、哲学者バートランド・ラッセル、産児制限運動家マーガレット・サンガ―、物理学者アルベルト・アインシュタインを相次いで日本に招いて話題を集めた。そんななかでの文学全集刊行は「儲けも削るなら印税も値切られるんじゃないか」とささやかれたりしたが他社も追従して文学全集だけでなく思想、美術、演劇などの全集が出版され空前の<円本ブーム>が起きた。
一方では<粗製乱造>とか<俗悪>とまでいわれながらも円本は安いだけに売れた。本屋の店頭を飾った赤いのれんやのぼり広告が新しい読者層を開拓して文化向上に貢献した。
*1954=昭和34年 東京に個人タクシーがはじめて登場した。
慢性的なタクシー不足と<神風タクシー>や<白タク>の解消をめざすのが目的で173台が誕生した。年齢40―55歳、運転歴10年以上、3年間無事故無違反=優良マークの運転手に営業免許が交付された。申請者6,400人だったから37倍の<狭き門>で第一号は16日に登場、マスコミがいっせいに取材して「こんなに注目されたのは生まれて初めてです」と緊張のハンドルを握っての発車となった。
*1894=明治27年 旅順陥落を祝って「大勝利石鹸」が売り出されるなど戦勝に沸いた。
東京では慶応大生が「カンテラ行列」をして話題になり、京都では花街で戦争にからむ流行語が飛び交った。祇園新地と先斗町を総称して<鴨緑江>、新地を<左岸>先斗町を<右岸>、島原を<海洋島>、上七軒や五番町で遊ぶのを<北進軍>、仲居さんを<赤十字社員>、舞妓はんを<軍楽隊>と呼んだ。
さかんに歌われたのは『婦人従軍歌』『豊島の戦』『喇叭(ラッパ)の響』『勇敢なる水兵』『軍神橘中佐』『雪の進軍』など多くが軍歌だった。
『雪の進軍』
雪の進軍氷を踏んで
どれが河やら道さえ知れず
馬は斃(たお)れる捨ててもおけず
此処は何処ぞ皆敵の国
ままよ大胆一服やれば
頼みすくなや煙草が二本
焼かぬ乾物に半煮え飯に
なまじ生命のあるそのうちは
こらえ切れない寒さの焚火
けむいはずだよ生木が燻(いぶ)る
渋い顔して功名談(ばなし)
すいというのは梅干し一つ
この歌は日清戦争で第二軍司令官だった大山巌大将が虎山という寒村に野営したさいのエピソードをもとに軍楽隊長の永井建子(けんし)が作詞作曲した。それまでの軍歌にはない「言文一致体」の歌詞で三味線にも合う俗謡調が大いに受けた。大山はのちに元帥になるがこの歌を機会あるごとに愛唱し、臨終の際も枕頭の蓄音機で聞きながら永眠した。
旅順へ軍医として参加した森鷗外=林太郎はこの『雪の進軍』の替え歌で『箱入娘』というのを作詞して陣中で大いに歌われた。
『箱入娘』
西施楊貴妃生まれた親の
自慢娘の旅順じゃけれど
昔くどいてつい落ちたのを
いつか忘れて養女に行って
今じゃロシヤの箱入娘
落ちぬ噂が世界に高い
替え歌という事情もあって一般には流行しなかったが本歌が4番までなのに5番まで作った。箱入娘の名前を「旅順」としたのはもちろん難攻不落だった旅順攻防戦をたとえてのこと。堅物だったといわれる鷗外もこれで大いに面目をほどこしたのでしょう。