“12月10日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1968=昭和43年 東京・府中で偽白バイ警官による「3億円強奪事件」が起きた。
午前9時25分ごろ府中刑務所脇の側道で東芝府中工場へ向かっていた日本信託銀行の現金輸送車が白バイ警官に停車させられた。警官は「銀行支店長の自宅が爆破された。この車にも爆弾が仕掛けてあるという連絡があったので調べる」と言って運転手と行員3人を車から降ろした。警官が車体の下に潜り込むとすぐに白煙が噴き出した。運転手らが驚いて離れたところ警官はキーをつけたままの車を運転して逃走した。
車には工場従業員約4,500人分のボーナス2億9430万7500円入りのジュラルミンケース3個が積んであったが国分寺市の墓地近くの空地に乗り捨てられていた現金輸送車からはケースは見つからなかった。その後の調べで犯人は緑と濃紺の2台の盗難カローラを乗り継いで逃走したとわかったが懸命な捜索にもかかわらず犯人は捕まらなかった。
事件発生の4日前、支店に「支店長宅を爆破する」という脅迫状が届いていた。用心するよう指示があったから逆に行員らは偽警官を<本物>と勘違いして110番通報が遅れた。しかも偽白バイ、ヘルメット、発煙筒、ハンチング帽、メガホンなどと遺留品が多く捜査が混乱、犯人とされたあのモンタージュ写真が似ていなかったなどもあって1975=昭和50年、盗難の公訴時効(7年)が成立して日本犯罪史上に名前を残す未解決事件になった。
ここまでが事件のあらすじ。新聞、雑誌、テレビなど多くのメディアをにぎわせ何人もの<容疑者>が報道されたがいずれもシロだった。またいくつもの映画、小説、漫画にもなった。<自称3億円犯人>も何人か登場してそのたびに話題になりました。あの日は雨、発煙筒が湿っていたのに着火することができた方法など犯人しか知り得ないいくつかの事実が説明できずにばれてしまうとか。
*1901=明治34年 田中正造が足尾銅山鉱毒問題を明治天皇に直訴した。
田中は栃木3区選出の衆議院議員で過去6回の当選を果たしていた。渡良瀬川の氾濫のたびに上流の足尾銅山から流れ出る鉱毒のために下流の水田の稲が立枯れる被害が出ていた。銅山経営は明治政府の殖産興業政策の主要事業のひとつだったが廃液処理はずさんで田中は農民が被害に困っているのを知り実態を調査して回って間違いないと確信した。当時は公害という概念がなく農民たちの抗議運動は「押出し」と呼ばれていた。
国会で田中は何度も足尾鉱毒問題を質問したが政府からは無視され続けた。さらに東京へ陳情に行こうとした農民と警官隊が衝突して農民多数が逮捕された川俣事件では「亡国に至るを知らざれば之れ即ち亡国」とするわが国憲政史上に残る大演説をぶったが当時の総理大臣・山縣有朋から「質問の意味がわからん」と答弁を拒否されてしまう。
直訴の1カ月半前に田中は議員を辞職し東京のキリスト教会など各地で講演を行っていたが鉱毒被害を世間に訴えるには天皇への直訴しかないと思い詰める。文案を書いたのは幸徳秋水で帝国議会開院式から帰る途中の明治天皇の馬車を日比谷で待ち受けた。黒木綿の服に袴、足袋はだし、田中はたちまち警官に取り押さえられたが号外が発行されたことで直訴状は広く国民に知られるところとなった。それでも政府は「狂人が馬車の前によろめいただけ」として即日釈放した。つまり実質的な<門前払い>で幕引きを図ったわけだ。
その後は財産全てをなげうち北海道への移転を伴う鉱毒対策としての遊水地建設反対の<草の根運動>を続けたが1913=大正2年、運動先で倒れた、71歳だった。茨城県古河市に天皇への直訴の様子を生々しくレリーフにした「田中正造翁遺徳の碑」が残る。
*1870=明治3年 名古屋城と金鯱(しゃち)は<無用の長物>であるという訴えが出された。
名古屋城は別名「金鯱城」「金城」と呼ばれ「尾張名古屋は城でもつ」と言われた。その城主第14代藩主徳川慶勝が新政府に訴えたから世間は驚いた。
名古屋城天守之金鴟尾、方今の際全無用の長物に候間、右金を剥し、乍聊(いささかながらでも)御用途の末に貢納仕度、且城内建物逐次取壊。将来修繕の冗賃を省き・・・
つまり名古屋藩としては要らなくなったし修繕費用もかかるから政府に献上しますという内容である。とくに金鯱は鋳つぶすなどして武士の帰農手当などに充てて欲しいと続く。これは結局、受け入れられず東京鎮台の第三分営が城内に置かれ1879=明治12年には姫路城と並んで保存が決定した。この裁定をしたのが陸軍卿の山縣有朋だった。
太平洋戦争の空襲で焼失、1959=昭和34年にコンクリート造で復元され名古屋のシンボルになっている。近年は本丸御殿が復元されて公開された。名古屋市の河村たかし市長は天守閣を木造で本格的に建て直す計画をブチあげているからそのうち復元が実現するかもしれない。市政運営については色々あってもこと名古屋城に関しては「そりゃあ元通りのほうがどえりゃあええ!」という県民性なのだ。