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“12月11日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1937年  イタリアが国際連盟を脱退した。

日本とドイツはひと足早く1933年に国連を脱退していた。イタリアはそれぞれと同盟関係を結んでいたから脱退によって三国の枢軸同盟ができあがった。同時にイタリアは<反英国>というスローガンを打ち立てた。脱退の理由はさまざまあるがいちばん大きいのはスペイン内戦への干渉で各国との関係が悪化したことだった。

この夜、首相のムッソリーニはベネチア宮で「東京=ベルリン=ローマを結ぶ枢軸勢力はこれから世界の一大勢力になる」と気炎を上げた。

*1892=明治25年  第一銀行頭取渋沢栄一が白昼、4人の凶漢に襲われ軽傷を負った。

渋沢は浅草今戸神社近くの屋敷で病気療養中だった伯爵伊達宗城(むねなり)を見舞うため兜町の自邸を馬車で出発した。伊達は旧宇和島伊達藩主(8代)で大蔵卿をつとめ岩崎弥太郎や渋沢らと東京海上保険会社を設立したさいに発起人に名を連ねるなど親交があった。

昼過ぎ、日本橋川に架かる兜橋に差しかかったところで仕込み刀を振りかざす男たちに襲われた。しかし馬車に乗っていたこともあり軽いけがをしただけだった。この年は3月に芝で480戸、4月に神田で4千戸、麻布で260戸、愛宕下で500戸と大火が発生した。さらに7月には大隈重信邸などに爆裂弾が届けられるなど世情不安が続き、新聞には米国製護身用ピストルの広告がしばしば出された。渋沢が護身用とはいえピストルを持っていたとは思えないが白昼だったので難を免れたか。

*1957=昭和32年  戦後第1号の100円銀貨が発行された。

戦後の激しいインフレで100円札が補助貨幣でしかなくなったため日本銀行が発行に踏み切った。銀60%、銅30%、亜鉛10%の品位=成分で表が鳳凰、裏が桜の図柄だった。当時の映画の入場料は150円、日雇労働者の日当はこの年に300円に引き上げられた。

2年後には同じ品位で稲穂の図柄の100円銀貨に代わったが銀貨だったのは10年間だけで1967=昭和42年からは白銅貨と呼ばれる銅75%、ニッケル25%のものに。100円銀貨時代の最高額面紙幣は5千円で千円、5百円、百円というラインアップ。銀貨・紙幣併用時の百円札は表が板垣退助、裏が国会議事堂で1966=昭和41年に廃止が決まった。図柄はときどきテレビのクイズ番組で出題されるけど見るたびになんだかなつかしい。

*1915=大正4年  米人飛行家チャールス・ナイルスが東京青山練兵場で曲乗り飛行を披露した。

当時、欧米では最新の<武器>として飛行機が実際に投入されていたから日本での関心は高くこの日は軍人だけでなく10万人もの見物客が詰めかけた。ナイルスは「宙返り」や急降下する「木の葉落とし」などの曲乗り飛行を鮮やかに演じて喝采を浴びた。

熱烈な「飛行少年」だった作家の稲垣足穂は旧鳴尾競馬場(兵庫県西宮市)へナイルスが行った曲技飛行を実際に見に行った。

徳利ジャケツを着込んだ彼が、バリバリのエロ=エアロマリン100馬力付きのカーティス複葉の先端にハンドルを握って、六甲颪(あらし)が粉雪をまじえながら吹き付ける只中をぐんぐん昇って行き、二条の黄煙の尾を曳きながら、ひいらひいらひゅるりひゅるり。これが観覧席の真上であるから同じ所で乱舞しているように見える。突風のどまんなかの三番叟である。首を九十度に曲げたおっさんが矢庭に大声を上げた。「こら面白(おもろ)い。こら観物や。こら値打がある。こら本物や。日本人には出来まへんな」 (『ヒコーキ野郎たち』)

この飛行機は二枚の翼の間にエンジンを背負って座り、操縦桿ではなくハンドルを握って方向舵を操作した。まだスロットルはなくエンジン・スイッチを入れたり切ったりして出力を調節したから事故も多くまさに<命がけ>だった。続いて翌年、来日した米人飛行家アート・スミスとともに一躍人気者になって流行歌にまで歌われた。スミスはアメリカ陸軍飛行隊に志願したが身体検査で体中に事故による傷跡だらけなのが発覚して失格になった。

  『新磯節』
  飛んだいたずら あの宙返り
  命ナイルス それ見たことか
  怪我で スミスも
  梶の鳥真似ちょっとやりそこね (3番)

  飛行機乗りでは ナイルス、スミス
  空の飛行機は 風梶だより
  わたしゃ あなたの
  梶のとりよで あゝ宙返り (6番)

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