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“12月20日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1830年  オランダからの独立を宣言してのちにベルギーとなるネーデルランド南部を列強が承認した。

この地域はスペイン、オーストリア、フランスと支配者が変わった。ナポレオン戦争の終結後はウィーン議定書によって現在のオランダとともにネーデルランド連合王国として再編されたが差別的な政策に住民の不満が絶えなかった。8月25日に群衆が王宮や新聞社などを襲撃して革命が起こり、9月には臨時政府を樹立した。

戦争はまだ続いていたが列強が承認したことで事態は大きく動いた。翌年、ドイツの領邦君主のザクセン=コーブルク=ゴータ家からレオポルドを初代国王として迎えた。1839年にはオランダとの平和条約が締結され、オランダはベルギーの独立を承認する代わりに「永世中立宣言」を受け入れさせルクセンブルク大公国などを分割した。

*1857=安政4年  南部藩士・大島高任が釜石に作った洋式高炉での初の出銑に成功した。

江戸時代、刀や鉄砲などは砂鉄を原料にして木炭を燃やす「たたら製法」で作られた。それが幕末になると外国船に対する海防のための洋式大砲の鋳造や量産が必要になった。これには銑鉄を大量に鋳造するための反射炉が必要だった。水戸藩は先進的な取り組みをしていた薩摩藩や佐賀藩の反射炉を視察してその研究をしていた大島に白羽の矢を立てた。

大島は大砲の製造には砂鉄原料ではなく岩鉄=磁鉄鉱を原料とした銑鉄が適していると考えた。そして良質な鉄鉱石が大量に埋蔵されているとして釜石に洋式高炉の「橋野高炉」を築造した。場所は違ってもあくまで水戸藩のための<試作の高炉>でこの日の出銑は今後の行方を占うものだった。

この成功により大島は水戸藩領内の那珂湊に本格的な洋式高炉を完成させるが安政の大獄により藩主・徳川斉昭が失脚したため高炉は閉鎖になった。

*1952=昭和27年  青山に東京ボウリングセンターが開業した。

国内では初めての本格的な民間ボウリング場でレーン数は20だった。会員制で入会金3万円、会費が年3千円でゲーム代は1ゲーム150円だった。しかし当時の巡査の初任給が月6,900円だったから庶民には高根の花で会員には芸能人が多かった。レーンはまだ機械化されておらず1回ごとに「ピンボーイ」と呼ばれた青年がピンを並べ直していた。

では繁盛したのかというと当初から会員集めには苦労したようでたった1年で経営破たんした。ブームを呼ぶにはちょっと<早過ぎた>ようです。

*1870=明治3年  明治政府が初めての刑法典となる「新律綱領」を編纂して頒布した。

全6巻8図14律192条から成っていた。その2年前に「仮刑律」として12律118条を定めたものにその後の調査での追加分を編纂したから「新」をつけた。いずれも江戸幕府や中国の刑法典を基にして作成され、賊盗、闘殺、詐偽などに分けて断獄=断罪された。同じ犯罪でも華族や士族には寛大な扱いが用意されるなど差別的な内容が残っていたものの1881=明治15年の旧刑法施行まで使われた。

*1900=明治33年  東京・神田明神恒例の歳の市で<人雪崩>が起きて10人が圧死した。

原因は人出が最高潮になった頃に急に雨が降り出したため、雨宿りする人や境内に入ろうとする人などで一の鳥居付近が大混乱になった。惨事の去った境内には脱ぎ捨てられた下駄や草履が約千足も散らばっていた。

*1951=昭和26年  国税局からはじめての「民間給与実態調査」が発表された。

いわば<サラリーマン白書>ともいえるものだった。当時の平均月給は男子が1万1,500円、女子が5,400円で2倍以上の開きがあった。金融、保険、不動産が高く重役のボーナスは神島化学、大日本紡績が抜群とある。神島化学、大日本紡績=現・ユニチカはいずれも関西系の会社だ。

この年はやったのは源氏鶏太がサンデー毎日に連載した『三等重役』からそのタイトルの「三等重役」。戦後、GHQの公職追放令によって財閥系大会社の経営者が退陣して代わって重役になったのがサラリーマン重役の「三等重役」だった。ちなみに生粋の資本家役員は「一等」エリート重役が「二等」だった。「三等」は社用で接待するのも予算は厳しく、早めに切り上げてお客をハイヤーに乗せて見送ったら国電に飛び乗って帰宅という何ともいじましいものだった。

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