1. HOME
  2. ブログ
  3. “12月22日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

“12月22日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1572=元亀3年  武田信玄軍が遠江国(静岡)三方ヶ原で徳川家康軍を破った。

この戦いは家康の生涯初の<負け戦さ>だった。ところが勝った信玄のほうはこれ以後、病気が重くなり翌年4月に信州・駒場で没した。「戦いはまさに時の運」ではあるが騎馬武者を中心とした武田軍にあっという間に蹴散らされかろうじて命拾いした家康は浜松城に逃げ帰った。

敵を見くびったのかそれとも油断があったのか。江戸時代に書き残された書物では家康の出陣を「敵が我が庭を蹂躙したのを黙って見過ごすわけにはいかなかった」からであるとする。しかしいくら血気盛んな31歳の家康とはいえ敵の戦力分析は十分にできていただろうから援軍を送ってきた織田信長からの信頼を裏切れなかったのと、強いほうに乗り換えたほうが生き延びられるという戦国時代の地侍たちの動向が無視できなかった。それもあって遠路はるばるやってきた武田軍にひと泡吹かせようと考えたか。

信玄軍2万7千に対し家康軍は8千と信長からの援軍が3千の計1万1千でいくら地理に明るいといっても半分以下の勢力だった。戦場となったのは三方ヶ原台地でここを突っ切ってさらに西に向かうと見せかけた武田軍が午後4時過ぎに台地の端で突然引き返して戦闘になった。武田軍は家康の軍勢をなるべく居城から遠ざけておこうとした陽動作戦に深追いした家康軍がまんまとひっかかった。

幸い冬の日は早く落ちて家康は闇の中を命からがら城に逃げ帰ることができた。短期決戦とはいえ間違いなく<完敗>だったのだろうが「大神君の威光」を傷つけまいとする江戸の文書には「小勢ながらよく敢闘した」と書かれる。家康は辛くも助かったからのちの江戸幕府があったわけで病に倒れた武田信玄のほうはやがて滅んでしまったのである。

*1885=明治18年  わが国初の内閣が大物揃いの<派閥均衡内閣>としてスタートした。

それまでの太政官制度を廃して内閣制度を採用した。従来の制度では天皇を補弼(ほひつ=補佐)する太政大臣、左右大臣が皇族、華族に限定され、実権を持つ参議や卿は補弼できなかったので国政が停滞しがちだった。そこでドイツを模範とした内閣制度が採用されることになった。

その顔触れは首相が伊藤博文、外相井上馨、内相山縣有朋、蔵相松方正義、陸将大山巌、海相西郷従道、法相山田顕義、文相森有礼、農商相谷干城、逓信相榎本武揚がそろって入閣した。内訳は薩摩・長州各4人、土佐・旧幕府各1人という派閥均衡型だった。人選に当たっては明治天皇の意向を最大限尊重したが<平民宰相>の伊藤やクリスチャンの森にも難色が示されたという。

それを聞いたのか伊藤は「たとい国会を設立するも最初は甚だ微弱のものを作るを上策とす」と謙遜したコメントを残している。

*1808年  ウィーンのアン・デア・ウィーン劇場でベートーヴェンの新作が初演された。

作品は第5・第6交響曲で客席は歓喜と興奮の渦に包まれた。批評家は「エネルギー十分な雲が電光を前後に投げつけて旋風を巻き起こした」と雷雲と稲妻にたとえて絶賛した。この第5番は「運命」第6番は「田園」だから聴衆の感動もわかるような気がする。

このときベートーヴェンを苦しめた持病の難聴は相当に進み聴力をほとんど失っていた。鳴りやまない拍手も聞こえなかったが地鳴りのような響きが全身を包み込んだから<交響曲の偉人>にとっては感無量の一夜になった。

*1758=宝暦8年  舞台での世界的大発明といわれる「回り舞台」が大阪に登場した。

発明したのは道頓堀の芝居茶屋に生まれた並木正三で狂言作者としても活躍していた工夫好きの人物である。この日、初日を迎えた『三十石艠始(よぶねのはじまり)』のクライマックスともいえる殺陣のまっ最中に舞台が大道具や役者を乗せたまま、ぐるりと回った。これに驚いたのは観客で、大仕掛けに最初は口をあんぐりだったが、やがて割れんばかりの拍手が起こった。

このときは舞台に乗せた「盆」と呼ばれる大きな円盤だけを動かしたがやがて舞台の床板を切り取って地下に盆を支える心棒という軸を据え付け、綱でそれを回す大掛かりなものに変わっていく。余談ながら地下を掘った土砂は芝居茶屋周辺の道路の普請に使われたから浪速の芝居ファンとしては道の普請が行われるとまた新しい仕掛けが楽しめるのかと期待したそうだ。
これが江戸に伝わり<江戸前の回り舞台>が生まれるのはその4年後だ。

回り舞台、奈落などは日本の歌舞伎舞台から工夫された優れた演出装置で、これが西洋の舞台で取り上げられたのは百数十年後とされる。

関連記事