“12月23日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1938年 南アフリカ沖でトロール漁船がそれまで見たことのない異様な魚を引き上げた。
鋼色のうろこ、2枚の背びれ、暗青色の大きな目――7千年前に死滅したとされた化石魚シーラカンスだった。現地語でゴンベッサ、ニュースで現生種の確認が伝わると「生きている化石」として学会だけでなく世界を驚かせた。
古生代や中生代には世界中の海に広く分布し、おもに魚やイカを捕食していたとされる。発見されたものからの推定で体長は3メートルにもなり解剖でメスが卵を体内で孵化させる「卵胎生」であることがつきとめられた。1997年にはインドネシアでも発見されたが「他の海域にもまだまだ生息しているかもしれない」と報道された。
*1933=昭和8年 皇太子明仁(現・天皇)誕生で各紙「慶祝」号外を発行、国内が沸いた。
午前7時前、東京の町に皇太子誕生を伝えるサイレンが2回鳴り響いた。6時40分宮内省による「本日午前6時39分をもって親王殿下御誕生」という発表を受けての知らせの合図だった。見出しは続けて「帝都は万歳の交響、沸騰する市民の歓喜」という活字が躍った。市内の電柱には早速、速報が貼り出され、やがて号外を告げる鐘の音が響いた。
商店街や役所、学校などには日の丸が掲げられ皇居二重橋前には円タクで乗り付けた市民らが万歳を繰り返した。坂下門前には急設のテントが張られて新聞社の自動車が右往左往、やってきた家族連れの「子供をたたき起して一家五人でやってきました。まことにめでたい」というインタビューを載せた。
築地の魚市場では新築中の塔の上に国旗が掲げられ、需要を当て込んで鯛やエビなどが飛ぶように売れ「相場はグングンのぼり、余りよすぎてどこまでいくのかわかりませんと事務所では有頂天」と報じている。近くの小学校では登校した生徒らが校庭で期せずして万歳!万歳!
*1948=昭和23年 極東国際軍事裁判で死刑が求刑された東条英機ら7人が処刑された。
未明の刑執行だった。「巣鴨拘置所では最後に花山信勝教戒師の手を握ってまず4人がにっこりと笑いながら刑場に向かった」「低い雲が月の光でポッと明るく、風はなま暖かかった」と読売新聞は書いているが<笑い顔>といいこの情景描写といいGHQの検閲があったとしても死刑の描写にしては何ともそぐわない気がする。「間もなくガタンと音がした」と続く記事を読んだ国民はどんな思いだったか。巣鴨拘置所は現在はサンシャインシティとなっている。
翌日、GHQは岸信介、児玉誉士夫、後藤文夫らA級戦犯容疑者19人を釈放とすると発表した。彼らは総理大臣までなった岸のように戦後日本の有力者になりそれぞれの分野で相応の地位を築いたが終生<元A級戦犯容疑者>というレッテルがつきまとったのも事実だった。
*1958=昭和33年 東京のシンボル・観光名所となった東京タワーの完工式が行われた。
正式名称は「日本電波塔」。高さ333m、使われた鋼材4千トン、工期2年半、労働力延べ22万人、総工費約30億円・・・式のあと各界の知名人など7千人が展望台に上り師走の東京を見下ろし「東京が丸見えのタワーだ」などと感激したという記事が残る。
2012年に完成した高さ634mの東京スカイツリーに抜かれるまで「高さ日本一」を誇ったのは約51年半だった。
*1879=明治12年 全国的にコレラが蔓延、千葉県では患者の隔離を主張した医師が撲殺された。
「大阪日報」に報道された事件で「千葉県下の某村」と村名は伏せられているが治療に当たっていた医師が村人から竹槍で叩き殺される事件まで発生した。この年の大発生は2年前の明治10年に次ぐもので全国の患者数は16万8千人、死者が10万1千人にものぼったとされるからかかったら最後、かなりの確率で死に至る病だった。
政府はコレラ病予防規則を発布し、患者を避病院に隔離するように指示したがコレラに対する人々の恐怖心は大変なものでさまざまな<流言>を生んだ。新潟県では「コレラ患者だと無理に避病院に入れるのはその実、患者の生き肝を取るためなり。その証拠には病院に入れたら最後、親兄弟にも面会させず、死体は遺族のもとにも伝染を恐れるという口実で戻さず皆焼き尽くすのだ」と。
東京でさえ「生き肝を取られる」「生き血を絞られる」などと巷間ささやかれていたから正しい医学知識以前のレベルで<見えない病気>への恐怖心が広がった。