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“12月24日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1871年  イタリアの作曲家ベルディの歌劇『アイーダ』がエジプト・カイロで初演された。

エチオピアの王女アイーダがエジプト軍に捕えられ、その将ラダメスに恋し、ともに獄死するという悲劇である。エジプト政府からの依頼を受けたベルディはこの中でイタリア・オペラの華麗な旋律だけでなく独自に創作した多国籍のいわば<異国的音楽>を取り入れた。スポーツの試合でおなじみの『凱旋行進曲』はとくに有名だ。当時としてはきわめて斬新な試みで「多国籍オペラ」といわれて代表作の一つとなった。本物の象が出てきたかどうかはわからないが、その舞台となるカイロでの初演は選んだ場所としてもぴったりで大成功をおさめた。

*1957=昭和32年  同じく音楽の話題、音楽チャンネルとしてNHKのFM放送が始まった。

この日午後7時、音楽ファン待望の実験電波が流れた。雑音のない澄んだ音で最初に届けられたのは年末にふさわしくベートーヴェンの『第九交響曲』だった。周波数87.3メガヘルツ、東京千代田放送局からまず関東エリアに向けての実験放送だった。

*1878=明治11年  X’masイヴのこの日、両国の米津風月堂から「貯古齢糖」が発売された。

もちろん当て字で「ちょこれいと(う)」と読む。つまりチョコレートである。『かなよみ新聞』に「本邦初の文明開化の味」と広告を出したが「チョコレートには牛の<血>が混じっている」と陰口をたたかれた。あわて者が<牛の乳>を<牛の血>と勘違いしたものだったが店としてはとんだ迷惑だった。

チョコレートは英語、ショコラがフランス語で、店によってはショコラとして売り出したがチョコレートが<多数派>を占めることで呼称として定着した。日本人として誰が最初にチョコレートを口にしたかというと江戸時代初期に慶長遣欧使節を率いてヨーロッパに渡りローマでは「貴族」に列せられた支倉常長(1571-1622)だったとされる。途中の1616年にメキシコで金平糖やキャラメルとともに薬用として味わった。

1873=明治6年には岩倉使節団がフランスのチョコレート工場を見学し記録を残している。
「銀紙に包み、表に石版の彩画などを張りて其美を為す。極上品の菓子なり。此の菓子は人の血液に滋養を与え、精神を補う効あり」
と効能まで紹介しているが庶民はなかなか買えない高級品だった。

初めに紹介した国産初のチョコレートは風月堂総本店の5代目・大住喜右衛門が番頭の米津松蔵に横浜で製造技術を学ばせて両国若松町の分店で発売させた。カカオ豆からの一貫生産は1918=大正7年に森永製菓によって開始された。

*1889=明治22年  読売新聞が朝刊一面に主筆と看板記者2人を迎えたという社告を出した。

「本社此度、文学上の主筆として文学士坪内雄蔵氏を招聘し猶ほ紅葉山人、露伴子の両氏も本社の招聘に応じて入社されたり」

坪内雄蔵とは坪内逍遥で数え32歳、紅葉山人は尾崎紅葉で22歳、露伴子は幸田露伴で23歳の若さだった。逍遥は26歳で評論『小説神髄』を発表し、小説は江戸時代の勧善懲悪から脱してまず人情を描くべきであると主張した。小説『当世書生気質』はその実験作品で、<心理的写実主義>と呼ばれて日本の近代文学の誕生に大きく貢献したがそうした実績を受けての主筆招聘だった。

紅葉は処女作の『二人比丘尼 色懺悔』で認められた新進作家で入社後は『三人妻』や『心の闇』『多情多恨』を次々に紙上で発表した。最後に書いたのが代表作の『金色夜叉』で1897=明治30年1月1日から1902=明治35年5月11日まで長期連載された。
一高の学生の間貫一の許嫁のお宮(鴫沢宮)が結婚を間近にして富豪の富山唯継のところに嫁ぐ。激怒した貫一は熱海で宮を問い詰めるが宮は本心を明かさない。貫一は宮を蹴り飛ばし、復讐のために高利貸しになる。一方のお宮も結婚生活は幸せではなかった・・・
さて二人の人生の、その恋の行方はどうなるのかと大きな話題になったが紅葉の逝去のため未完となった。

もうひとりの露伴は小説雑誌「都の花」に発表した『露団々』が主宰の山田美妙に激賞された。この年の『風流仏』や1891=明治24年に発表した『五重塔』で作家としての地位を不動のものとした。

近代日本文学史上、紅葉・露伴・逍遥は森鷗外と並び「紅露逍鷗時代」とか<写実主義の尾崎紅葉、理想主義の幸田露伴>として「紅露時代」とも呼ばれる。いずれにしても筆の立つこの3人の入社で読売新聞が一気に読者を拡大していったことは間違いない。

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