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“12月29日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1916年  革命前夜のロシア、宮廷を意のままに操った怪僧・ラスプーチンが暗殺された。

帝政ロシア末期の自称・修行僧。シベリア生まれの元農民だが経歴などはいっさい不明、歴史上の評価はきわめて低いがロシア帝国崩壊の一因を作った人物として<悪名>が高い。1904年に当時の首都、サンクトペテルブルグ(現・ペトログラード)に出たラスプーチンは人々に病気治療と称した施術で信者を広げた。その噂を聞いた皇族からの紹介でアレクセイ皇太子の血友病治療をきっかけに宮廷に入り込んだ。

ラスプーチンが使ったのは一種の催眠術ともいわれるが皇帝ニコライ夫妻の信任を得ることに成功する。第一次世界大戦が勃発すると前線の指揮で国外に出ることが多くなったニコライ2世に内政を任されたアレクサンドラ皇后に取り入り、政治に口出しするようになった。さらにその威光を背景に宮廷の貴婦人などを次々に籠絡していったという。

危機感を抱いたユスボフ公は皇帝の従兄弟のドミトリー大公らと共謀し、ラスプーチンを晩餐に誘い暗殺してネヴァ川に沈めた。死の直前にニコライ2世に謁見したラスプーチンは「もし私が陛下のご一族に殺されるようなことがあれば陛下とご家族は悲惨な最期を遂げられるでしょう。そしてロシア全土には多くの血が流されるでしょう」と伝えた。何らかの<予感>があったのだろうか、それはロシア革命やその後の内戦などによって見事に<現実>となった。

以来、ラスプーチンは得体の知れない悪役を代表する存在になる。小説や映画、アニメからオペラまで彼を主役にしたり<それらしい人物>が描かれたり。名前はあえて挙げないがわが国でも「〇〇のラスプーチン」と呼ばれた人物は多い。まあ、それは<不名誉>と紙一重だから自分から名乗る人はいないと思うけど。

*1929=昭和4年  8年がかりで建設が進められていた上越線の清水トンネルが貫通した。

この日、午後2時5分20秒、江木翼(たすく)鉄道大臣の合図で発破のスイッチが入れられると鈍い轟音が坑内を震わせた。やがて白煙が収まると「貫通したぞ!」の声が響き、抗夫たちが奥へといっせいに駆けだした。岩壁には2尺(60センチ)ほどの穴があき、長岡口側と群馬口側の双方が重なり合って手を握り合った。再度の発破で貫通穴はさらに広げられ午後8時半から<通り始め式>が行われた。

トンネルは9,702メートルで2年後の1931=昭和6年9月1日に開通した。延べ240万人を動員したとされ当時は日本一の長さを誇った。それまでの碓氷峠を越える信越本線経由に比べ新潟と上野間は一挙に98キロ、4時間も短縮された。

複線化のために1967=昭和42年に13,500メートルの新清水トンネルが開通し、現在は「上り線用」として使われている。当時はトンネルの掘削をできるだけ短くするためにトンネルの両側にループ線を建設して高さを稼ぐことで山の上部にトンネルを掘った。

川端康成の『雪国』の冒頭にある「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」は完成したばかりの清水トンネルが舞台である。

*1819=文政2年  57歳の俳人・小林一茶が俳文集『おらが春』の最後の句を書いた。

  ともかくもあなた任せのとしの暮

前年6月には生まれたばかりの長女さとを亡くした。この一年、折々の見聞や思いを日記スタイルで毎日書き続けてきた。

  我と来て遊べや親のない雀
  名月を取ってくれろとなく子哉

などおなじみの句もこの中に入っている。
信州中野の門人の家に残されていたのを一茶の没後25年目に白井一之が出版した。題名は年頭の一句からとった。

  目出度さもちう位也おらが春

一茶は信州・柏原宿(現・長野県上水内郡信濃町)生まれの俳諧師。15歳で江戸に出て奉公し20歳ごろから俳諧を始めるが宗匠として一家を成すほどは出世しなかった。父の死後、柏原に戻り、継母との確執もあって再び江戸に出た。50歳で故郷に帰った2年後に妻をめとったがさとを含め授かった3男1女をいずれも幼くして亡くした。

  露の世は露の世ながらさりながら
  是がまあつひの栖(すみか)か雪五尺
  故郷は蠅まで人をさしにけり

とはアブのことだろうか。子供を亡くした一茶にとって子供は何よりいとしい存在だったろう。故郷の日々で喜びも悲しみもすべて体験した。

  雪とけて村一ぱいの子どもかな

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