“1月1日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1863年 アメリカ独立戦争のさなか南部連合軍の支配地に向けた「奴隷解放宣言」が発効した。
こう書くとアメリカ全土の奴隷を解放する宣言ではなかったのかと思われるかもしれない。ひとことで答えるなら「YES」である。前年7月にアメリカ合衆国議会が提案した宣言にリンカーン大統領が署名したのは連邦軍=北軍が戦っていた南部連合軍=南軍の支配地域の奴隷を解放せよという限定的なものだった。南北戦争には多くの奴隷が北軍の兵士として自分たちの自由のために戦っていた。戦争が泥沼化したなかで連邦に反抗的な南軍兵士が持つ奴隷の解放をうたうことで揺さぶりをかける狙いがあり、最初にはなかった「戦いの意義と目的」を明らかにしようとした<後出しじゃんけん>ともいえた。
政治家としてのリンカーンは自らも奴隷を抱えていたし何よりも「現実」を直視した。奴隷制度の即刻廃止の主張は連邦軍の分裂を招きかねず、宣言に署名した直後に南軍が北上して南北戦争最大の決戦となったアンティータムの戦いが起きた。
宣言の「予告版」を発表したのは戦いにかろうじて勝利したあとの9月22日にずれ込んだ。対象としたのはあくまで南軍の支配地域で、北軍支配地域や周辺部にまで干渉するつもりはさらさらなかった。この時点での奴隷解放宣言は「戦闘に必要な処置」に過ぎず合衆国全土で奴隷制廃止に動き出すのは戦争終結後の1865年を待たねばならなかった。
*1956=昭和31年 新潟・弥彦神社で初詣客が石段で将棋倒しになり124人が死亡した。
<おやひこさま>と呼ばれる越後一の宮の神社は弥彦山の麓にあり、大みそかから元日にかけての「二年詣り」でにぎわっていた。この年は雪もなく近郷から前年の1.5倍にあたる3万人が参拝、境内は5千人以上で埋まっていた。午前零時の花火を合図に餅まきを始めようとしたところで押された人々が階段で倒れ、さらに後ろからの人が折り重なったのと玉垣が崩れ落ちて大惨事になった。
当時は境内の照明はなく暗かったのと餅まきが階段下の広場で行われることになっていたため「福餅」を求めようとした人々が先を争って階段に殺到して大混乱となった。死亡したのは男性86人、女性38人で94人が重軽傷を負った。人出に備えて警察官十数人が配備されていたが大半は道路の交通整理に当たっており境内にはたった2人がいただけだった。
*1891=明治24年 前年の東京―横浜での電話サービス開始を受けて「電話年始」が登場した。
当時、葉書での年始や名刺を届けての年始、新聞広告による年始が定着していたが新たに「電話年始」が登場した。どんなものだったかを「郵便報知」という新聞が伝えている。
見出し:「これは便利簡単、電話の年始」
チリンチリン
「はい、どなた」
「〇〇ですが、略儀ながら電話をもって御年始を申上げます」
あとの形式は当人の自由であった、とこれだけの記事だが、出た相手の「はい、どなた」が「もしもし」ではないのが気になったので「語源辞典」で調べてみた。
語源は江戸時代に呼びかける際に単独で使われた「申し」を連ねて短縮した言葉。電話開通当初は高級官僚や実業家などしか電話を持っていなかったため「おいおい」と呼びかけ「はい、ようござんす」などと返答していた。「もしもし」が使われるようになったのは電話交換手がつなぐ相手に失礼にならないよう「申上げます」と言っていたのが短くなった。
そうすると「はい、どなた」と電話口に出たのはその家の当主だったわけで、便利簡単だったかも知れないが考えついたのはよほどの<新しいもの好き>だったんでしょうねえ。
*1911=明治44年 国鉄大阪駅に自動式入場券発売函が登場した。
1874=明治7年に開業した当時は「梅田駅」「梅田ステーション」などと呼ばれていたが阪神、阪急や山陽鉄道(後の山陽本線)阪鶴鉄道(同、福知山線)南海鉄道(同、南海本線)など私鉄が乗り入れると旅客輸送が急増、駅名の梅田を貨物駅の駅名として譲り大阪駅となった。東京の新橋駅に次いで乗降客が多く、見送りや出迎えで毎日500~600人の入場客があり、陸海軍の入営時期にはそれが1日で数千人にふくれ上がっていた。
入場券の販売だけで相当な手間と人手がかかっていたため、省力化と待合室の混雑解消を狙って自動式発売函が導入された。装置は「1・2等待合室」の入口に設けられ目立つように<青ペンキ>で塗られていたという。