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“1月10日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1920年  アメリカ26代大統領ウッドロウ・ウィルソンの提唱により国際連盟が発足した。

第一次世界大戦の硝煙が消えたときに人々が願ったのは<二度と戦争は繰り返すまい>という平和への思いだった。ウィルソンは2年前の1918年の議会教書で戦後の世界再建への14カ条の綱領を発表した。主要点は秘密外交の排斥、海洋航行の自由、経済上の障害除去と貿易条件の平等、軍備縮小、植民地問題の自由公正な調整をあげて目ざすべき国際連盟の政治的独立と領土保全のための国際組織を提唱した。

ウィルソンは1919年にノーベル平和賞を受賞し、悲願の提唱による国際連盟は対独講和条約のヴェルサイユ条約の発効と同時に実現した。本部が置かれたのはスイス・ジュネーブで「原加盟国」とされた最初の加盟国は日本も含め42カ国だった。イギリス、フランス、イタリア、日本など列強が常任理事国となりその後、ロシア革命直後のソヴィエト社会主義共和国連邦も加盟した。

しかし何としたことか、ウィルソンのアメリカは最初から加盟しなかったし敗戦国ドイツは当初は参加を認められなかった。やがて1933年には日本と遅れて加盟したドイツが、37年にはイタリアが脱退した。さらに39年にはソヴィエト連邦がフィンランド侵略を理由に除名されたことで無力化していった。

「第二次世界大戦が起きてしまったから」という<結果論>からの評価はしたくないが、国際連盟でのさまざまな試行錯誤が後継の国際連合に生かされていることは間違いない。本部建物のパレ・デ・ナシオンは国際連合ジュネーブ事務局として現在も使用されている。

*1873=明治6年  明治政府は20歳以上の男子に3年間の兵役につかせる徴兵令を発布した。

表向きは一応、国民皆兵ではあったが270円を納付すれば兵役免除の<抜け道>もあった。一家の主人は徴兵されないという例外規定もあったからまだ無名の彫刻家だった高村光雲は未亡人になっていた師匠の姉の養子になることで徴兵を逃れた。

この年、新商売として誕生したのが徴兵除けの「おまじない」「お札」「刷り物」など。当時はやった戯れ言に「徴兵懲役一字の違い、腰にサーベル鉄鎖」がある。たしかに威張ることができるのと威張られるばかりなのでは大違いですなあ。いずれにしても貧しい家の二、三男以下は兵役から逃れられず人生のつらい岐路が待っていた。

*1810=文化7年  頼山陽が塾頭として招かれた私塾の開校式で『論語』を講じた。

山陽は江戸時代後期の歴史・思想家で漢詩人としても知られる。大阪に生まれたが広島藩の学問所の儒学者に登用された父・春水のもと広島で育った。18歳で江戸に3年間遊学して戻ったが広島には飽き足らず出奔、しかし連れ戻されて父親から<謹慎処分>として自宅に幽閉される。この間は著述に没頭、後に完成する『日本外史』の初稿を完成させた。

10年近い謹慎処分が解かれると父・春水の友人である儒学者で詩人の菅茶山が備後国(広島)神辺に開いた「廉塾(れんじゅく)」に都講=塾頭として招かれた。30歳の山陽は塾の講堂奥の「塾頭部屋」に寝起きして塾生約30人を2年近く指導した。

「子曰く 学びて時に之を習う また説(よろこば)しからずや」=孔子先生がおっしゃった。学んで適当な時期におさらいをする、いかにもうれしいことだね。そのたびに理解が深まって向上していくから。

「朋有り 遠方より来たる また楽しからずや」=友人が遠くから訪ねて来る、いかにも楽しいことだね。同じ(学びの)道について語り合えるじゃないか。

この日の講義が『論語』の冒頭からだったならこの「学而編」からだろう。私流に意訳しておきます。

*1837年  ロシア近代文学の祖とされる詩人で作家のプーシキンが決闘で倒れた。

なぜ決闘になったのかについては多くの説がある。たとえば農奴解放論をぶち上げるのを快く思わなかった保守派の貴族が仕組んだ陰謀説や賭博原因説、美人の妻に執拗に言い寄る男との決闘説など。このとき受けた傷がもとで2日後にサンクトペテルブルクで38歳という若さで息を引き取った。

ロシア名門貴族の出身だったが母方の曽祖父がピョートル大帝に仕えたエチオピア人で、彼にはアフリカ人の血が流れていた。さらに持ち前の奔放さで作品を生み出していったから女性ファンも多かった。葬儀では数万人の女性が紅涙を絞ったとされるが、実際には騒動を恐れた政府が親しい者だけで密葬にさせたとか。そのくらい人気があったわけです。

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