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“2月3日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1947=昭和47年  アジア初の冬季オリンピック第11回札幌大会が開幕した。

世界36カ国から1,655人が参加して開かれた<雪と氷の祭典>で日本ジャンプ勢が大活躍した。宮の森シャンツェで行われた70m級(現在のノーマルヒル)では笠谷幸生・金野昭次・青地清二の日本ジャンプ陣3選手が金・銀・銅メダルを独占、「日の丸飛行隊」としてその快挙が新聞やテレビをにぎわせた。

「やった!“金、銀、銅の鳥”」
「抱き合い喜びの男泣き 宮の森、観衆ただ陶然」の見出しに続けて記事は

やがて45番の笠谷。だれもが長さ103メートルの助走路の一点を見つめた。かっ色の、裸の松林に囲まれたジャンプ場は美しい。助走路のずっと上方、空との境のあたりから、豆粒ほどの人影がすべり出た。弾丸のようにくだって来る。小さく、小さく丸めた五体。踏切台のかげに姿が消えたと思った瞬間、赤いユニフォーム姿が飛鳥のように空に舞い上がった。

「それいけ」「それいけ」と手拍子をとる大観衆の目が、それを追う。84メートルは最高だった。赤、青、黄、カラフルなスタンドにもロイヤルボックスの天皇、皇后両陛下にも、その赤いユニフォームは頼もしかったに違いない。笠谷はアウトラインを滑走する。両手を左右に広げ、腰を落とした姿勢から、次第にからだを起こす。その姿に大観衆はまたも酔った。

大会人気№1は尻餅をついても笑顔を絶やさなかった女子フィギュアの18歳、ジャネット・リン(米)。銅メダルに輝いた美しい演技が観客を魅了した。「札幌の恋人・銀盤の妖精」は乳酸飲料・カルピスの宣伝にも登場しました。

*1717=享保2年  「大岡裁き」で知られる大岡越前守忠相が41歳で江戸南町奉行に就任した。

中級の旗本の家に生まれた忠相は異例の出世街道を進んで徳川8代将軍・吉宗の抜擢で幕閣に連なり、吉宗の断行した「享保の改革」に伴う経済政策や物価安定に手腕をふるった。いわば有能な官僚でありブレーン。町奉行の在職は20年、その後は寺社奉行を経て三河国(愛知)額田郡に陣屋を置く1万石の譜代大名になり1751=宝暦元年に68歳で没した。茅ヶ崎市の窓月山淨見寺に墓所がある。

忠相を有名にしたのは名奉行としての「大岡裁き」や「大岡政談」で伝えられる機智・頓智の才人という顔である。原型は死後間もない宝暦・明和年間に作られた創作だから本人とは全く関係のない話も多く、なかにはインドや中国の故事から引いた逸話まである。『梅雨小袖昔八丈』のように河竹黙阿弥が明治になって作ったものもあるがほとんどは幕末にかけて講釈師がパン、パパン、パンと「張り扇」片手に語ったものだ。

「三方一両損」「天一坊」「白子屋お熊」「小間物屋彦兵衛」「傾城瀬川」「雲切仁左衛門」「仏市兵衛鬼源蔵」・・・といろいろある。たとえば「三方一両損」は三両を拾ってお上に届けた正直者と落したことは既にあきらめたからと強情に言い張る商人との仲裁をする越前守が双方に2両ずつ渡し、差額の一両は奉行が持つからとそれぞれが<一両損>で丸く収める話。「仏市兵衛鬼源蔵」は長屋の皆から<仏市兵衛>と慕われていた家主の源蔵の夢に地中に埋められた阿弥陀如来が現れ「早く掘り出せ」と告げた。そこで床下を掘ってみると地中から実際に阿弥陀如来が出てきてこれが話題になり連日参拝者が絶えずお布施も相当な額になった。ところが不審に思った越前守が源蔵を問い詰めると昔、自分で仏像を埋めたことを白状したということで<仏>の評判が一変して<鬼>になったという話だ。

幕府の裁判制度そのものが乱れていたからこそ「大岡裁き」や「大岡政談」が生まれたなどといっては皮肉すぎるかもしれない。だが、法を正しく、かつ融通して適用してもらいたいという庶民理想の奉行像がここにあることだけは間違いない。

*1678=延宝6年  上方歌舞伎の初代坂田藤十郎が『夕霧名残正月』を演じて大当たりをとった。

大坂・荒木座での藤屋伊左衛門役は江戸の市川團十郎の「荒事」に対して「和事」と呼ばれ<やつし・濡れ・傾城買い>などの演技は上方歌舞伎を代表する芸風となった。近松門左衛門と提携した『傾城仏の原』などを多く上演して人気役者になった。当時の歌舞伎評判記にも「難波津のさくや此花の都にて傾城買いの名人。舞台にによつと出給ふより、やあ太夫さまお出じゃったと見物のぐんじゅどよめく有さま、一世や二世ではござるまい」と人気ぶりが紹介されている。

菊池寛の小説『藤十郎の恋』は長谷川一夫主演で映画化されたが松竹から東宝への移籍を聞いた暴力団員に顔を切られて再起不能かとまで言われたあとの復帰第1作で1938=昭和13年の作品。山本嘉次郎監督のメガホンで入江たか子と共演した。それだけに思い入れがあったのか、戦後の1955=昭和30年にも森一生監督の大映映画で京マチ子を相手に好演して成功を収めた。

2005=平成17年に三代目中村鴈治郎が四代目坂田藤十郎を継いで「231年ぶりの名跡復活」と話題になりました。

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