“2月4日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1945=昭和20年 ソ連の対日参戦の<極東密約>が話し合われたヤルタ会談が始まった。
ヤルタは黒海の北岸、クリミヤ半島にあるソ連屈指の保養地として知られる。会談は11日までの8日間の日程でヤルタ近郊のロシア皇帝ニコライ2世の別荘だったリヴァディア宮殿にチャーチル(英)、ルーズベルト(米)、スターリン(ソ連)の首脳が集まって開催された。半分以上の日程でドイツおよび中部・東部ヨーロッパとくにポーランドを巡る利害調整、国際連合構想などが話し合われたが後半に行われた日本についての協議でスターリンは「連合国のドイツへの勝利後に対日戦争に参加する」という立場を重ねて表明したとされる。
この<筋書き>に沿ってドイツが無条件降伏したこの年5月8日の3ヶ月後の8月9日にソ連は日本に宣戦布告し満州に侵入、千島列島などを占領した。日本の戦力を過大評価したアメリカが極東での<大きな代償>を与えてスターリンに対日参戦を約束させた、という見方もある。これがソ連に対する<屈服>だったと批判されると1956=昭和36年になってアイゼンハワー政権は「ヤルタ協定はルーズベルト個人の文書であり米国政府の公式文書ではないから無効である」という米国国務省の公式声明を出した。
ルーズベルトはヤルタ会談直後の4月、スターリンは1953年3月に死去していたから当事者はいなかったわけだ。長く続いた冷戦がようやく緩和した時期ではあったが密約そのものが<リセット>されることはなく今に至る。
*1703=元禄16年 赤穂浪士46名が切腹を命じられた。
吉良屋敷への討ち入りのあと細川、松平、毛利、水野の4大名家に預けられていた浪士たちはそれぞれの屋敷内で切腹した。幕府の中でさまざまな評議が重ねられたが「主君の仇を討った義挙といえども公儀の許しもなく、助命したとしても晩年に堕落する者が出れば義挙に傷がつく。武士として死を与えるのもこれ情けなり」という意見に傾いた5代将軍綱吉の苦渋の決断とされる。
「四十七士」なのに46名なのはなぜ?と気付かれた方もあろう。おなじみの『忠臣蔵』ではひとりだけ士分ではなく足軽として参加した寺坂吉右衛門信行が、大石内蔵助に「浅野家ゆかりの者たちに討ち入りの次第をしっかり伝えるように」と密命を託された。寺坂は83歳まで生きたが死後、浅野家の菩提寺・泉岳寺の義士墓所に供養墓が建てられた。墓石には「遂道退身信士」と刻まれることでようやく「四十七士」が揃った。
*1891=明治24年 大阪で当時28歳の川上音二郎が「書生芝居」を旗揚げした。
自由民権運動では自由党の壮士だった川上が芝居に転身するにあたって選んだのは新派発祥の地・大阪だった。芝居好きの川上はまず落語家・桂文之助に入門して浮世亭〇〇=まるまると名乗って「オッペケペー節」を歌い人気をさらった。
権利幸福きらいな人に 自由湯をば飲ましたい
オッペケペッポー ペッポッポー
固い上下(かみしも)かどとれて マンテルズボンに人力車
いきな束髪ボンネット 貴方に紳士の扮装(いでたち)で
うわべの飾りはよけれども 政治の思想が欠乏だ
天地の真理がわからない 心に自由の種をまけ
オッペケペッポー ペッポッポー (1番)
洋語なろうて開化ぶり パン食うばかりが改良じゃない
オッペケペッポー ペッポッポー
皇国の権利を拡張し 国威を張るのが急務だよ
知識と知識の競べ合い キョロキョロいたしちゃ居られない
究理と発明の先がけで 異国に劣らずやっつけろ
神国めいぎだ 日本ポー
オッペケペッポー ペッポッポー (5番)
マンテルズボンは裾が広がった「マンボ・ズボン」のこと。鹿鳴館に出入りして欧化主義の先頭を走っていた紳士はマンテルズボンに「ロンドン高帽」と呼ばれた山高帽姿だった。束髪ボンネットは流行の洋髪にスカートをふくらませたボンネットという女性の洋装スタイルのことである。毎夜のように開かれた舞踊会や園遊会に対して自由党の壮士たちは初めのうちは言論で政権批判を行ったが言論弾圧が厳しくなると代わりに歌を考えた。
「壮士」とは『史記』にある<壮士ひとたび去ってまた還らず>からとった「国事に奔走して一身をかえりみない人物」のこと。芝居で川上は緋の陣羽織、白鉢巻きの扮装で日の丸扇を開いて幕間には「オッペケペー節」をがなり立てた。文明開化もうわべだけで薄っぺらだと皮相な欧化主義を痛烈に揶揄嘲笑した内容だったから大いに受けた。しかし『経国美談』『板垣君遭難実証』の二本立ての舞台のほうは不入りのうえ「それでも芝居か。置け、置け!」とやじられるなど散々でわずか1週間で打ち切りになった。