“2月9日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1936=昭和11年 日本初のプロ野球ゲームが名古屋・鳴海球場で行われた。
4日前の2月5日に東京の日本工業倶楽部で全日本職業野球連盟の発会式があったばかり。東京ジャイアンツ=巨人、大阪タイガース、阪急、名古屋、セネタース、大東京、名古屋金鯱の7チームが加盟して発足したリーグ戦の初戦だった。乗り込んだのは東京巨人軍、迎え撃つは名古屋金鯱(きんこ)軍だった。
読売新聞が「拭ふが如く晴れあがった春日の」と書き出しているように雲ひとつない快晴だった。試合開始は午後2時35分で「一進一退の」と紹介したいところだが次のようなスコアだった。
巨人 003000000 3
金鯱 230000230 10
アウェーの巨人は東京からの移動で消耗したのか、それとも急造チームとはいえホームの地元有利だったか。巨人は頼みのエース澤村が打ち込まれて3-10と大敗した。
金鯱には選手引退後に審判として活躍した島秀之助が外野手で在籍していた。セリーグ審判部長として長嶋がサヨナラホームランを放った1959=昭和34年の天覧試合の球審を務めた人物である。他に何人かは戦後の球界史に名を残したが同じ名古屋でも中日ドラゴンズのルーツではなく下位に低迷し結成5年目で消滅した。
*1293=永仁元年 竹崎季長が元寇の<戦功>をアピールする『蒙古襲来絵詞』が完成した。
季長は鎌倉幕府の御家人で肥後・熊本の武士だったが同族間の所領争いに敗れて没落していた。1274=文永11年の元寇襲来(「文永の役」)に博多で参陣し「一番駈けの武功」を挙げたものの戦傷を負っただけで戦功は認められなかった。これを不服として翌年6月に馬などを処分して旅費を調達すると鎌倉に上り恩賞奉行の安達泰盛と面会を果たした。この直訴が実って肥後国海東郡(現・宇城市)の地頭に任じられた。
1281=弘安4年、蒙古の2度目の襲来(「弘安の役」)では志賀島や壱岐の海戦で敵の軍船に斬り込むなど活躍した。前回の鎌倉幕府への直訴も含めて雇った絵師に自分の活躍ぶりを詳細に描かせて肥後の甲佐神社に奉納したのがこの絵巻である。つまり自己アピールのためだったわけだが元寇での実戦の様子が詳しく描かれている。集団戦術で戦う蒙古兵や軍船などの戦いの状況が具体的に描かれた唯一の絵画資料として知られ旧・御物、宮内庁所蔵となっている。
「文永の役」で季長が一番駈けの武功を挙げようと矢が飛び交い、てつはう=鉄砲などの兵器が炸裂するなかを蒙古軍に向かって斬り込んでいく。敵の放った矢が季長の馬に刺さって血が噴き出す場面などは日本史の教科書名などでおなじみである。季長による追加指示で書き加えがあるなどの説があるが元寇そのものの資料が少ないだけに近年、海中から発見された元寇船などとともにそれを実際に伝える貴重な歴史資料である。
*1895=明治28年 戯画入り時局風刺雑誌の『團團珍聞』がめでたく通算1000号を発行した。
「まるまるちんぶん」と読む。通称・マルチン。社説にあたる「茶説・洒蛙説」や狂歌、狂句、風刺戯画満載で当時の藩閥政府を皮肉ることで人気を集め、自由民権運動の機運を煽った。創刊は1877=明治10年2月25日、毎週土曜日発売、のちにジャーナリストとして活躍する宮武外骨はマルチンの投書家から出発した。
1908=明治41年まで続いて明治期の最長寿雑誌となったが再三の言論弾圧を巧妙にかわしたことでも知られる。西南戦争が始まっていた創刊当時は西郷隆盛を<最後酒盛>桐野利秋は<桐の折詰>というようにそれらしいシャレでかわした。西郷の墓を描いた漫画には「鎮西狂賊兵強大権衰之馬鹿(ちんぜいきょうぞくへいごうだいげんすいのばか)」に供花の代わりに刀や鉄砲、弾薬が供えてあるという具合。
自由民権運動の漫画は「民犬遠吠」と大きく成長した犬(=自由民権)を政府官吏が押さえる図。下級官吏の多忙ぶりは「眼を廻す器械」として紹介した。政府高官を批判するにしても実名を避ける用心ぶりで創刊時は年間15万部、1880=明治13年には26万部を売った。編集陣には梅亭金鵞(ばいていきんが)鶯亭金升(おうていきんしょう)画家は「最後の浮世絵師」「明治の広重」といわれた小林清親が中心となった。
お雇い外国人として来日してその後は風刺画家に転じて17年間にわたって活動し日清戦争には英紙『ザ・グラフィック』の特派員として「報道画」を寄稿したことで知られるフランス人のジョルジュ・ビゴーもいた。このときの風刺画『魚釣り遊び』には魚=朝鮮を釣り上げようとする日本と中国=清、その横取りをたくらむロシアが描かれている。