“2月16日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*935=承平5年 『土佐日記』の作者・紀貫之がようやく京の都に戻ってきた。
勅撰集の選者、当代随一の歌人としての名声でようやくつかんだ土佐=高知の国司という受領(ずりょう)職。4年の任期を大過なくつとめたが、後任の到着遅れからさらに1年を過ごす間に最愛の女児を亡くした。連日の別れの宴や出発準備に追われながら暮れも押し迫った12月21日に土佐の国府を出発して海路、浪速津(大阪)をめざした。天候急変やうわさが絶えない海賊襲来を心配しながらの55日間の旅は60歳代の体にはこたえた。
「をとこもすなる日記といふものを、をむなもしてみむとてするなり」の書き出しで始まる日記は京の都に到着して終盤を迎える。月明かりに照らされた5年ぶりの屋敷は見ただけでもひどく壊れていた。預けておいた人にはついでがあるたびに金品を絶えず届けさせていたのにこのありさまだった。庭は池みたいにくぼんで水がたまっている。そばにあった松2本の片方はなくなっていた。近頃生えた若いのがまじっているようだが松に限らずあたり一面すっかり荒れてしまった。とりわけここで生まれた娘が一緒に戻れなかった悲しみがさらに心を締め付ける。
生まれしもかへらぬものをわが宿に小松のあるを見るがかなしき
見し人の松の千年に見ましかば遠く悲しく別れせましや
ここまでくると貫之が自らを女性に仮託して亡き娘への思いを主題にしたと読める。歌に続けて「忘れようにも忘れられず、心残りのことが多いがとても書き尽くせない。何はともあれこのようなものは早く破ってしまいましょう」と書かれたところで終わる。
もちろん破り捨てられなかったからこそ日記は残り、女流日記文学の成立など後世に大きな影響を与えた。父親として<破り捨てたかった>のは悲しい気持ちのほうだったろう。
*1883=明治16年 わが国初めての「天気図」が試作された。
現在の天気図に慣れたわれわれから見ると等高線の数も極端に少なく正直な感想は<幼稚だな>と言いたいところだがここまで来るのには大変な苦労があった。その「前史」を少しばかり紹介しておこう。
1871=明治4年、オランダ・アムステルダムの商船学校を卒業したドイツ人航海士のエルヴィン・クニッピングが乗り組んで東洋に来航した蒸気船がたまたま日本に売却されることになった。東京で下船したクニッピングは逓信局で日本の船員を教育する仕事に就く。なかなか熱心な人物だったらしく船舶から収集した気象報告や地方測候所、灯台などからの気象通報をもとに調査を重ねた。そこでいちばん緊急を要する台風などに伴う「暴風警報」を発令すべしという建白書を政府に提出すると「船の知識も深いあなたの力をぜひ借りたい」として1881=明治14年に内務省の<お雇い外国人>となり翌年、東京気象台に入った。
クニッピングは函館など11か所の観測拠点から送られてきた「気象電報」をもとに自ら天気図を書き、英語で天気概況を記入した。これを助手の馬場、保田、上原の3人が訳した。「低気圧」ということばはこのときに生まれたとされる。手書きで書いたから<試作>というわけではないが3月1日からは印刷したものを発行した。
初めての「暴風警報」発令は5月26日、「天気予報」は6月1日から始められた。東京気象台の申請で1883=明治16年から各測候所からの気象電報は無料にされた。だが天気図の測候地点はその4年後でもまだ22カ所しかなく「洪水警報に至りては、もっとも人民に直接関係を有し、非常の便宜を与うるものなるが、その効力を充分ならしめんには現在の30測候所のみにては固(もと)より不足なり」と新聞に書かれているのはまだまだ信頼に足る精度ではなかったからだろう。
当時の東京気象台の住所は港区虎ノ門というからいまのホテル・オークラ付近にあった。
*1961=昭和36年 戦後間もなく書肆ユリイカを創設した伊達得夫が没した。40歳。
夭折した詩人・原口統三の遺著としてベストセラーになった『二十歳のエチュード』を出版したことでも知られる。「詩集など絶対に儲からない」と言われながら死ぬまで多くの詩集を出し続けた。出版社の名前にしたユリイカは友人だった稲垣足穂に教わった。「アルキメデスが比重の原理を発見した時にユリイカ!と叫んだ。ギリシャ語で<ワレ発見セリ>いう意味やで」と。
大岡信は「伊達のような出版人が過去に実在し、掛値なしに一級の仕事をしたということ。しかしその仕事は、まず絶対に金儲けにならず、ほぼ五百部前後、多く売れても一千部どまりの詩集の刊行に終始した」と記す。
伊達が手がけた『ユリイカ』は青土社に引き継がれている。