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“2月19日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1946=昭和21年  昭和天皇の地方巡幸が神奈川県から始まり、以後、毎年のように行われた。

年頭に異例ともいえる「人間宣言」の詔勅を出して国民を驚かせたばかりだったが2日間の予定で川崎の昭和電工川崎工場を皮切りに横浜、浦賀、久里浜を巡幸した。右手で軽く帽子を持ちあげるポーズやなるべく多くの人に手を振ろうとする姿に「恐れ多い」と土下座し、泣き出す人も多かった。

出迎えた人には「どこで戦災にあったの?」「生活状態はどう?」、こどもたちに「ちちはは(父母)はごぶじでしたか」と直接声をかけ、説明者に「あ、そう」と答えるしぐさなど<人間天皇>の姿が直接伝わったことで敗戦によって悲惨な生活にあえぐ国民を大いに元気づけた。

全国を巡った総日数は165日、約3万3千キロにも及んだ。このときはMPも動員されたがすべてが初めてのことだけに巡幸を警備する警察官らの緊張ぶりは大変なものだった。

*1837=天保8年  午前8時ごろ大坂・天満の与力屋敷から大音響とともに火柱が上がった。

「天保の大飢饉」とも呼ばれた相次ぐ飢饉で米価は8倍にまで高騰した。超インフレで庶民が苦しむなか豪商らは役人と組んで巨利を得ていた。こうした現状を憎んだ大阪東町奉行所の元与力で「中斎」と号する陽明学者の大塩平八郎が自邸に火を放って門弟ら100人と蜂起した「大塩平八郎の乱」の始まりだった。

大塩は家督を譲って引退してからは自らの蔵書数万冊を売却して貧民救済に充てたがそれを知った奉行所から「売名行為である」と差し止められた。その後、家族とも離縁して家財を売却した資金で大砲や爆薬を購入すると私塾の「洗心洞」を中心に賛同者を集めた。軍事訓練を重ねて門下生や近郷の農民らにひそかに「檄文」を回して決起を呼びかけた。しかし<世直しの義挙>は内通者によって漏れたため予定を10日繰り上げて蜂起した。

「救民」と大書した旗を掲げて大塩の一行は買い占めで暴利を得た米問屋や鴻池などの豪商を襲い店舗に放火した。奪った金銭や米は窮民に施したが、火が風にあおられて燃え広がりのちに「大塩焼け」といわれる市中の5分の一を焼く大火となった。反対に肝心の役所への襲撃は進まず、夕方までに乱はあっけなく平定されてしまう。

大塩は養子の格之助とともにせめて飛脚に託して幕府にあてた告発状の行方を見守ろうと市中に潜伏した。ところが途中で中継した飛脚が「中身は金品ではないか」とこっそり開封したものの三通の書状だけだったので捨ててしまった。それが拾われて箱根の関所へ届けられたため告発は幕閣には届かず義挙は不発に終わった。

大塩らは40日後に商家に潜んでいるところを探索方に包囲され爆死を遂げた。<顔なし>ゆえにあとあとまで「替え玉説」や「海外逃亡説」が飛び交い檄文は新潟・柏崎や摂津・能勢など各地の決起を誘い、寺子屋では習字の手本にされた。

この乱は大塩という名を知られた旧幕史が江戸に次ぐ重要都市の大坂で起こしただけに幕府の威厳を大きく損ない、のちに一揆では「大塩残党」「大塩門弟」と名乗る者が続出した。

*1907=明治40年  いまの道交法にあたる警視庁の「自動車取締規則」が制定された。

わが国に自動車が初めて輸入されたのがその8年前の明治32年で、規則が制定されたといってもまだ東京には16台しかなかった。対象は自動車を運転する運転手や乗務員で特筆しておきたいのは速度と道路制限である。「時速12.7キロ以下、幅10.9メートル以上の道路でなければ通行を禁ず」。これはその後の改正で市内は時速16キロ、郡部は20キロに緩和されたが速度を守る人はほとんどいなかったから次第に事故が問題になる。誰もが<飛ばすステータス>が魅力で車を購入したのだから無理もなかった。

*1954=昭和29年  わが国初のプロレス興行が3日間の日程で蔵前国技館を会場に行われた。

ハワイでのプロレス修業を終えた力道山がアメリカからシャープ兄弟を招いて行った初試合でタッグを組んだのが柔道家出身の木村政彦だった。フォールされそうになる木村を助けに入る力道山の空手チョップがさく裂する筋書きが敗戦国民に受けに受けた。日本テレビだけでなくNHKまでがテレビで中継した。

「力道山怒った。さあ出るか、空手チョップ!」――街頭の白黒テレビはどこも人だかりで埋まった。中継のアナウンサーがテレビの画面から「押さないでください!」と呼びかけたというウソのような話も伝わる。

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