“2月20日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1923=大正12年 東京駅丸の内駅舎前に東洋一の威容を誇る「丸ビル」が完成した。
三菱地所の前身・三菱合資会社地所部の桜井小太郎が設計、社の総力をあげて2年半をかけた。正式名は「丸ノ内ビルヂング」で地上8階、地下2階、延べ面積約6万平方メートル。オフィスビルの低層階をショッピングモールにしたさきがけで米国のノウハウが売り物のフラー建築という合弁の新しい建設会社が工事を担当した。
ところがこの年9月1日の関東大震災で大きく被災する。郵船ビルなど同社が手掛けたビルは軒並み被害が大きかったのでやむなく修復・補強工事は大林組に変更し、2年半がかりでようやく復旧した。
それはともかく、東京駅のすぐ前に出現した近代ビルはなにかと話題を集めた。「昔恋しい銀座の柳」ではじまる歌謡曲『東京行進曲』の2番に登場する。
恋の丸ビルあの窓あたり
泣いて文(ふみ)書く人もある
ラッシュアワーに拾ったばらを
せめてあの娘の思ひ出に
作詞はフランスへの遊学から帰った西条八十で中山晋平が曲をつけた。佐藤千夜子が歌ったレコードは45万枚を売り上げた。もとは若き日の溝口健二監督がメガホンをとった同名映画の主題歌だったが<主題歌>というのも<歌謡曲>の呼び名もこれが最初になった。
1999=平成11年に解体された建物地下部分から基礎工事で打ち込まれた輸入米マツの丸太杭が大量に出土した。この一部が超高層ビルに生まれ変わった「新丸ビル」の床材やベンチなどに再利用されて話題に。
*1734=享保19年 見世物にするため江戸・両国に大クジラ2頭が運ばれて大人気となった。
行徳の浜(現・千葉県市川市行徳)に迷い込んだもので大きさは7間=12.7mと5間=9.1mと伝わる。「江戸はじまって以来の見世物」という触れ込みで集まった江戸っ子たちはその大きさに度肝を抜かれた。こんなに大きなクジラを運んだとすると何艘もの船で引いて海から隅田川を、と思って調べてみたら切り取った頭と尾を両国橋まで運び、胴体は竹細工で作った<中抜きの張りぼて>だったそうな。それでも見料はひとり8文にもかかわらず連日押すな押すなの盛況だった。
意外に知られていないが東京湾はかってクジラの宝庫だった。湾のいちばん外側の房総沖では江戸時代の明暦から宝永年間(1655-1711)に醍醐家によって「鯨組」が組織されマッコウクジラやツチクジラを捕った。羽田で釣りをしていたら沖のほうで鯨が潮を吹くのが見えたという記録もあり漂着例も数多い。64年後の1798=寛政10年には見世物になったのよりさらに大きい9間1尺=16.5mのクジラが嵐で弱っているのを品川沖で漁師が見つけ銛で突いて仕留めた。
あまりにも大きいので現在の浜離宮付近まで引いてきたのを第11代将軍家斉も見物した。瓦版にも報じられたからその後9日間も見物人が引きも切らず品川宿は大いに賑わった。このクジラは大きさからシロナガスクジラとみられている。胴体の部分は油を採るために売り、頭部は土に埋めて「鯨塚」にしたものが品川の利田(かがた)神社に残っている。俳人・谷素外の「江戸に鳴る冥加やたかしなつ鯨」という句が彫られているところからみると鯨騒ぎの季節は夏だったか。
*1607=慶長12年 出雲阿国が江戸城内の広場で「阿国歌舞伎」を興行して人気を博した。
4年前、京都で鮮烈なデビューを飾った阿国は<満を持していた>かのように江戸表にやってきた。幕府の所在地となったことで都をしのぐ繁栄になった江戸の、しかも江戸城内の二の丸と三の丸に挟まれた広場という絶好の舞台だった。乾いた冷たい風が吹き抜ける日だったがこの日の勧進興行の日程が明らかにされると江戸はこの話題で持ちきりになった。押し寄せた観客の中には有力商人や大身の武士も多く大変な混雑だったからその熱気で寒さなど感じなかった。
この年、阿国は隠居した大御所・家康が過ごしていた駿府=静岡でも興行したと伝えられる。しかしその後、ふっつりと消息を絶ってしまう。故郷の出雲に戻って尼になったなどの諸説があるが阿国の<亜流>として盛んに演じられるようになった「遊女歌舞伎」の隆盛に埋もれたのか。
異端が正統になり、やがて歌舞伎は女子を排した「野郎歌舞伎」に移っていく。出雲大社や京都大徳寺塔頭の高桐院に残る「墓」は<その後の阿国>について何も語らない。