“2月21日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1872=明治5年 東京初の日刊新聞で毎日新聞の前身となる東京日日新聞が創刊された。
大蔵省へ出した出版願いには「御布告始、御各省之御転任、御館御移転等之事」と<御>の多いのはともかく「日々米穀及物価之相場、開店売薬等之報告、商事之新報、農事之評論、外国新聞之訳挙(翻訳)、新技之発明」に続き「不意之凶変、其余珍説奇話、流行之俗謡ニ至候迄」を幅広く取り上げるとした。発起人には日本画家・鏑木清方の父で山々亭有人(さんさんてい・ありんど)と号した著述家の条野伝平や貸本屋の番頭をしていた西田伝介、浮世絵師の歌川芳幾こと落合幾次郎らが名を連ねた。
創刊当初は美濃紙に一面だけの二色刷りで定価は140文、1か月分は銀20匁で「官書公報」と一般ニュースにあたる「江湖叢談」欄の基本構成で記事といっても10件あるなしだった。雑報に至るまでそれぞれに「註」がつけられて読みやすくする工夫がされていた。編集から印刷までを浅草橋近くにあった条野宅で行っていたが東京・大阪間に電信が開通し、全国に郵便制度が施行されるなど通信手段が大きく発展を遂げた<時代>を背景に急速に部数を伸ばし、わずか2年後には銀座に社屋を建てた。
活字を中心とした新聞だけでなく落合が腕をふるった多色刷りの「錦絵版東京日日新聞」は錦絵と新聞のトピックスを一緒にした<新媒体>として庶民に受けた。大事件のたびに増刷され、地方から上京した人たちには故郷への格好の”東京みやげ”となるという<うれしい誤算>もあった。
*1911=明治44年 入院中の夏目漱石が文部省から贈られた「博士号」を返上した。
胃潰瘍のため転地療養先の伊豆・修善寺温泉で大出血し危篤状態に陥った漱石は小康を取り戻し東京の長与病院に入院中だった。その留守宅に文部省から電話があり博士号を贈りたいという内容だったことを鏡子夫人から聞いた漱石は<授賞の打診>であろうと思って「挨拶に来たら丁寧に断るように」と伝えた。
ところが文部省は追いかけて決定通知を届け、そこに「受領に来られたし」とあったため直ちに文部省にあてて手紙を書いた。「小生は今日迄ただの夏目なにがしとして世を渡って参りましたし、是から先も矢張りただの夏目なにがしで暮らして参りたい希望を持って居ります」と丁重に断った内容ではあったが内心では激怒していたという。すでに『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『こころ』などの小説で売れっ子になっていたから博士号にこだわる気持ちもなかったし、打診もなしに取りに来いとは何事か、というわけである。
こんどは文部省が「すでに決定したのだから辞退は受け付けられない」と押し返し、博士号は<宙に浮いたまま>となった。過去に前例のない珍事だっただけにこれが世間の話題を集めることになった。わざわざ「弁明書」までしたためて権威ある肩書きをはっきり断ったことはもっとも漱石らしいとされる一方で、手順が違うとかんしゃく玉を爆発させただけという見方もある。
こんなことを分け知りに書いていると漱石先生得意の“ことば遊び”で<八釜(やかま)しい!>と叱られるかも。
*1946=昭和21年 警視庁がGHQの指示に基づき、初の婦人警察官募集を行った。
読売新聞に掲載された求人広告を紹介すると
婦 人 警 察 官 募 集
勤務及資格:高女卒業以上ノ者
年齢:20歳ヨリ30歳迄、身長:1米50以上ノ者
警察官ノ補助二當ル、通勤(昼間勤務)
希望者ハ履歴書ヲ3月5日迄、郵送又ハ御持参下サイ
銓考日ハ追テ通知シマス
東京都芝區田村町六ノ九 警視庁警察練習所
採用されたのは65人で以後、日本各地に婦人警官が生まれ、警察民主化の“動く広告塔”になった。
ここにはもちろん書かれていないが<隠れた選考基準>には容姿端麗があったわけで採用された第一期生はいずれも美人揃いではあった。
試験の常識問題では「ビキニ島」や「ノーパーキング」の意味を問われたが、ビキニ島は「南洋にある島」と正答が多かったもののノーパーキングは「どこかの王様のこと」と書いた珍答が寄せられてこれには試験官も驚いた。彼女たちにとって自分で車を運転する機会はまずなかったし、駐車禁止など知らなかったのだから出題するほうが無茶というもの。まさかとは思うがGHQが<例題>を作ったのだろうか。