“2月28日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1972=昭和47年 軽井沢の別荘地で起きた「浅間山荘事件」が最終局面を迎えた。
9日前の19日午後、巡回中のパトカー隊員らがレイクニュータウンの一角にある楽器メーカーの保養所「浅間山荘」を訪問したところ中からいきなり散弾銃で撃たれた。武装した連合赤軍メンバーが管理人の妻の牟田泰子さん(32)を人質に立て籠もっているのが判明した瞬間だった。保養所の名から「浅間山荘事件」と呼ばれる。
山荘は谷の上部の崖にせり出すように作られた3階建て。山荘からの眺めはいいが山側からしか近づけないまるで難攻不落の要塞のような構造で、これ以降、山荘からは絶え間なく銃が乱射されたが、犯人が何人いるのかも含めて室内の様子などはまったくつかめない。山荘のある別荘地は高原の軽井沢でもさらに山の上にあり夜間の気温は-15℃にも下がり日中でも連日-5℃前後の日が続いた。資材だけでなく弁当や飲料水さえも凍るなど一方では極寒との戦いでもあった。いたずらに時間ばかりが過ぎ非常線をすり抜けて山荘に近づいた民間人1人が狙撃され、警官にも散弾銃でけが人が出ていた。身元が特定できた犯人の家族が拡声器で呼びかけたが、いら立って銃撃で応えるだけで逆効果だった。前夜からの雪が30-40cmも積もり人質の安否もわからず、無事だとしても極限状況の中では生死ぎりぎりであると思われたなかで<Xデー>の緊迫の夜が明けた。
最終動員されたのは、警察庁、警視庁、長野・神奈川県警などの機動隊や武装警官ら約1,500人。放水車や特殊車両が数十台、なかでも人目を引いたのは巨大鉄球をぶら下げた建設用クレーン車だった。積雪が山荘から銃で狙う際の<視認性>を高めたのは計算外だった。作戦開始は10時ジャスト。「予定行動開始!これより特殊作業を開始されたい」の合図で一斉放水が始まり、あのクレーンと鉄球が動き始めた。上空には何十機もの取材ヘリが飛び回り、山荘の窓からは絶え間ない発砲。騒音のなかで「突入作戦」が開始された。
ところが作戦開始直後にいきなり機動隊の指揮官が頭を射抜かれて現場は大混乱になってしまう。「至急!至急!1名、左目わきに銃弾を受けました。担架、担架を要請します!」と最前線からの非常通信。これは後のドキュメント映像で聞いたものだったか。午前中、さらにひとりが頭部に銃弾を受け、最初の指揮官と合わせて2名が殉職してしまう。鉄球が動くたびに建物正面の壁に大きな穴をあけていくが、放水のための水が底をつくなどして何回かの中断を含めて突入部隊の前進も一進一退が続いた。
建物内部への突入開始は午後4時46分。機動隊が打ち込んだ催涙ガス弾は1,489発、発煙筒12発とされるが大半はこの前後に使われたものだ。応戦した犯人たちが撃った銃弾は計104発、突入直後に1発の鉄パイプ爆弾が爆発し機動隊員が大けがをしたがもう1発は不発だった。爆発していれば危うく3人目4人目の殉職者が出るところだった。ようやく人質が救出され、犯人の男5名が逮捕されたのは日もとっぷり暮れた午後6時20分。「牟田さんは生きている!生きている、生きている!元気です、元気です!」というアナウンサーの中継に日本中が安堵し涙した瞬間だった。逮捕された赤軍派幹部の3人にまじり未成年の兄弟2人がいたことも国民に大きなショックを与えた。
籠城開始から延べ219時間と国内事件での新記録となった。NHKの中継もこの日だけで10時間40分にのぼり最高視聴率は89.7%を記録した。これは人質になったのが“普通の主婦”だったということもあるが、もちろんこの記録もいまだ破られていない。
*1638=寛永15年 「島原・天草の乱」が終結した。
当時18歳のカリスマヒーロー・天草四郎に率いられた一揆軍は3万とも4万ともいわれた。武器なども乏しく、やがて島原半島の原城に追い詰められ最後まで残ったのはわずか100人。兵糧に持ち込んだ海藻や麦の葉まで食べたがそれも尽き、二の丸、三の丸に続き本丸が炎に囲まれて終わりの時を迎えた。
決起の動機は島原、唐津両藩の激烈をきわめたキリシタン弾圧にあるといわれてきた。しかし、3年続きの凶作にもかかわらず年貢は年々増やされ、厳しい取り立てや完納できない農民に<見せしめ>として残酷な刑を科したことなどに耐えかねた農民層の決起がはじまり。そこに迫害キリシタンが加わり一揆は唐津平野や五島列島にまで広がった。
鎮圧にあたった幕府軍は周辺諸藩の藩主も島原入りしたことで12万人を超えた。しかし一揆軍の抵抗は激しく、オランダ船を回航させて海から原城を砲撃させたりしたが、内戦に外国の力を借りるものとして籠城側から皮肉られ、攻撃側からも異論が出て中止になる。オランダに対抗するポルトガルが半年間も日本との国交を断絶するなど駆け引きの舞台にもなった。幕府軍のなかには肥前・中津藩に召し抱えられていた宮本武蔵もいた。
天草四郎の本名は益田時貞。キリシタン大名・小西行長の家臣だった父親が、藩主の肥後・宇土城主当時に生まれ宇土で育った。幼少時から長崎に通ってキリスト教に入信、洗礼名は「ジェロニモ」と伝わるが、何だか西部劇に出てきそうな名前である。落城後、城内にはおびただしい死体が残されていたがいずれも火を浴びてどれが四郎本人かは見分けがつかない。捕えられていた母親が四郎の首実検を命じられたが「四郎はいまごろ白鳥となって伴天連の国へ向かっているところでございましょう」と拒否した。