“3月4日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1951=昭和26年 インドのニューデリーで第1回アジア競技大会が開幕した。
参加したのは日本をはじめ11カ国の約500人。競技は陸上・水泳・サッカー・自転車競技・バスケットボール・重量挙げのわずか6種目だった。日本チームは女子陸上で全種目の金メダルを独占して大いに気を吐き、金24、銀20、銅15の計59個のメダルを獲得して堂々のトップ。開催国のインドは、金15、銀17といずれも2位、銅はトップの20でメダル獲得数では計52個の第2位と面目を保った。
「アジアの友好と親善の技を競う!」というこの大会は前年に開催する予定で準備が進められたが、資金だけでなく資材や用具などが足りず1年間延期になっていた。日本もそうだったが各国とも戦後の混乱がまだまだ尾を引いていたため、参加費用の工面だけでなく<勝てる選手>を集めてインドまで派遣するというだけで難事業だった。
2010年の第16回の中国・広州大会が、参加45カ国、9,704人、競技種目42だったのに比べるとまさに隔世の感があります。
*1771=明和8年 小塚原の刑場で蘭学医の杉田玄白らが腑分け=人体解剖を初見分した。
同席したのは後輩で同じ若狭・小浜藩医の中川淳庵と九州・中津藩医の前野良沢で3人はいずれも藩の上屋敷詰=江戸詰だった。前野は長崎遊学中に入手した解剖学書『ターヘル・アナトミア』をわざわざ持参していた。杉田、中川の小浜藩組のほうも同じ本を持ってきておりお互いに手をたたき合って喜んだ。もっとも、いまのような「ハイタッチ」じゃなかったろうが。
小浜藩組の1冊は、中川が江戸参府中の長崎出島の商館長(カピタン)が譲りたいと言っているという情報を聞きつけ、いったん現物を借り出して先輩の杉田に見せたものの値段が高かったので藩の家老に直訴し続けてやっと購入してもらった経緯があった。それを他藩の前野はすでに持っていたということに驚いたのだ。腑分けの現場に揃ってこの本を持参したのは、彼らは図版の精密な解剖図に驚きはしたものの、それまで医師として学んできたのは昔ながらの「五臓六腑」から始まる人体理論だけで、実際の「人体の中身」は見たこともなかった。前夜は眠れなかったかどうかは分からないが彼らの知的興奮は相当なものだったろう。
菊池寛の『蘭学事始』には「新大橋の藩邸を出て行くと、途中で、明六ツの鐘がかうかうと鳴り渡って居る頃であった」と書く。この日の体験はまさしく実地での解剖図の正確さの検証でもあった。その結果は「細かなところまで見事に一致していた」のだから感動したのはいうまでもない。翌日からさっそくその翻訳作業にとりかかったことからも彼らの気持ちの高ぶりがうかがえる。
原本はドイツ人医師のクルムスがドイツ語で書いたのをオランダ語に訳したものだった。ターヘルは表とか図、アナトミアは解剖の意とされてはいるがアナトミーが正しいとも。いまさらの話かもしれないが彼らはそれさえも知らなかった。しかも辞書も何もないなかでの手探りと試行錯誤を重ねた末、ようやく1774=安永3年に『解体新書』として刊行、将軍に献上された。
何事にも先覚者の苦労は後世のわれわれの想像をはるかに超えるということと腑分けに使われたのは「女囚」だったことを付け加えておく。初めにそれを書くと<あらぬ妄想>を持たれては、と勝手に思った次第。お許しあれ!
*1869=明治2年 明治政府は新しい硬貨を先進諸国と同じく「円貨」とする制度を決めた。
大隈重信の建白によるもので通貨単位を両から圓=円に変えることや1両が4分、1分が4朱という4進法は外国人には理解しにくかったので10進法の採用などを盛り込んだ。さらにそれまでの方形貨幣は流通して行くうちに四隅が摩耗するなどで品質低下が甚だしかったため円貨の導入に変えた。
このときに採用された硬貨の種類は1厘、5厘、1銭、2銭の銅貨、5銭、10銭、20銭、50銭、1圓の銀貨、1圓、2圓、5圓、10圓、20圓の金貨で旧1両を新1圓にすることとし、100銭=1圓、10厘=1銭としたがここまでは<まるく>収まった。
当初、大隈は金銀貨を併用する「金銀複本位制」を考えたがアメリカに出張した大蔵少輔の伊藤博文から「世界の大勢は金本位制に向かいつつあり」という報告が入ったため翌年末に金本位制の採用が正式決定された。ところが清をはじめとするアジア諸国は依然として銀取引主体の経済圏で、貿易用の「一円銀貨=貿易銀」を鋳造して開港地では無制限に通用を認めた。市場では銀貨の流通量が増大して金貨を上回るようになり1885=明治18年には銀本位制に。ようやく元に戻されたのは1897=明治30年になってからだ。