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池内 紀の旅みやげ(9)横浜・ホテル・オリエンタル

歴史の本には「グランド・ツアー時代」などと書かれている。一九世紀の後半にヨーロッパで流行した旅行熱である。とりわけ東方(オリエント)に人気が集まった。はじめはエジプトやトルコなど、ヨーロッパに近い中近東だった。それがしだいにインド、ジャワ、中国へとのび、極東の日本までひろがった。
プッチーニのオペラ「トゥーランドット」は中国が舞台になっている。「マダム・バタフライ(蝶々夫人)」は日本の長崎だ。オリエント・ブームをあてこんでつくられ、舞台の大当たりがまた東方人気をかき立てた。ジュール・ヴェルヌの「八十日間世界一周」は時代の夢を正確に映している。未知の遠方に対して、人々がさほど不安を抱かずに出発したのは、オランダのロイドをはじめとする海運業者が世界に船便を広げ、また主だった港町にヨーロッパスタイルのホテルができていたからである。おりからのブームに目をつけた新興ホテル業者が、つぎつぎと豪華ホテルをつくっていった。カイロ、アレクサンドリア、イスタンブール、ニューデリー、ジャカルタ、北京、神戸、横浜……。あるところはマジェスティック(王侯)ホテルといった。いちばん多くつくられたのはグランド・ホテルとオリエンタル・ホテルだった。どこも石造りの華やかなつくりで、ダンスホールやプールをそなえ、オペラの舞台のような異国情緒をかもし出すインテリアがされていた。

もうおわかりだろう。神戸オリエンタル・ホテルと横浜のニュー・グランド・ホテル。わが国きっての名ホテルとして知られている。詩人ジャン・コクトーは世界一周旅行の途中に日本へ来たとき、神戸では当然のようにオリエンタル・ホテルに泊まった。終戦とともにアメリカ軍が乗り込んで来たとき、最初に横浜のグランド・ホテルを接収して、日本統治の作戦本部を置いた。接収解除後、経営者は大幅に改造をほどこし、「ニュー・グランド」の名で営業を再開した。

先日、ちょっとした用にかこつけ、念願のニュー・グランド・ホテルに泊まった。旧館はよく旧型を残していて、グランド・ツアー時代の華やかさをとどめている。多少ともマガイモノ的雰囲気があるが、グランド・ツアー自体が幻想のオリエントを夢見たマガイモノであって、その点では実態に即している。

夕食は中華街ときめていたので、夜を待って出かけて行った。ニュー・グランドから中華街までは五分とかからない。もう少し歩きたい気分だったので、南門通りを左に折れた。しばらく行って、おもわず足をとめた。右手にオリエンタル・ホテルがある! 標識に明かりが入り、ホテル・オリエンタルとウェルカムにそえて「東方旅行社」と漢字がついている。グランド・ツアー時代には異国趣味から、ヨーロッパ人にはわかりもしない漢字つきの看板がはやったが、まさに正統派オリエンタル標識といえるのだ。

旅愁を感じさせる「横浜・ホテル・オリエンタル」のファサード

旅愁を感じさせる「横浜・ホテル・オリエンタル」のファサード

三階建て、正面は黄色いタイルで、入口は緑の張り出し、ドアは古風な両開き。それ自体は申し分ないのだが、正統派を裏切るとすると、汚れぐあい、標識の電気が窓からコードで引っぱってあること、両開きドアにラーメン屋に見るような「営業中」の札が下がっていることだろう。

しばらくまじまじとながめていた。古びぐあいからして相当の年代物である。グランド・ホテルの背中合わせのような位置につくったとき、グランド・ツアー時代のヒーロー・ホテルにあやかる意図があったかもしれない。

今なお異国からミナト・ヨコハマのホテルを予約するとき。かつての二代巨頭の一方の雄を選び、勇躍やってくるツアー客もいるのではあるまいか。ニュー・グランドと中国人街との間に位置するホテル・オリエント! 現物と対面するまでは、夢が風船のようにふくらんでいく。

よく見ると、一階の窓から引いた電気コードはガムテープでとめてある。ウェルカムの標識に満杯の2リットルボトルがいくつものせてあるのは、安定が悪いので補強したらしい。横手にまわると壁の色ちがいから、三度にわたって増築したことが見てとれる。さらに屋上にプレハブづくりがのっていて、全体はみすぼらしいが、「営業中」の札が示すように、それなりに需要があって、立派に盛業中と見える。

ヨーロッパのグランド・ツアー時代は第一次世界大戦とともに終了した。贅をこらした王侯ホテルは多くが倒産したが、経営者が目ざとく方針をかえたところは生きのこり、現在もそれぞれの国の名ホテルとして名をとどめている。

横浜にもニュー・グランドの背後にひっそりとオリエンタルが存在する。主人の「乗用車」のような自転車が入口に立てかけてあって、かたわらに客が乗ってきたらしいオートバイがとめてある。金はないがエネルギーはありあまったオートバイ野郎たちが、世界一周の途中に利用しているのかもしれない。

【今回のアクセス】横浜・中華街の南門から徒歩一分。超ハデハデの店の並びなので、注意していないと通り過ぎてしまう。

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