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“4月15日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1929=昭和4年  大阪・梅田に阪急百貨店が開店し食堂のライスカレーが大評判になった。

阪急百貨店は初の電鉄会社直営のターミナルデパートだった。地上8階、地下2階の建物は1階が阪急梅田駅、2階から6階までが商品売場、7・8階には4,000人収容の大食堂が作られた。ライスカレーは創業者の小林一三がヨーロッパに渡航した船中で食べて気に入ったことでメニューに取り入れた。

百貨店の食堂では、東京・白木屋の1904年=明治37年がはじまりとされるが小林は契約農家から米を直接仕入れ、炊き方にも工夫、食券制の導入やウエイトレスのエプロン着用など独創的なアイデアを取り入れた。その目玉がライスカレーだったが小林が考え抜いたのは価格だった。それもなるべく安く提供できないかと考えた。東京では百貨店やレストランでは一皿50銭だったのを、思い切って「福神漬け付きで20銭」にしたのが受けた。当時はライスカレーとカレーライスの呼び方があったが、阪急百貨店は<ライスカレー>だった。

おりしも昭和恐慌に突入していく時代、サラリーマンの懐事情は厳しく、ライスカレーではなくその4分の一の5銭だった「福神漬け付きライス」だけを注文し、これにウスターソースをかけただけで済ませるという<ソーライス>がはやった。

それを従業員が<儲からない>と問題にするなかで小林は「彼らは、いまは貧乏かもしれないが、将来は家族連れでまたやってきてくれるはずだから大切にするように」と諭し、昼食時には必ず食堂にやってきてライスだけのお客には福神漬けの<増量>を指示。客席を回って暖かい笑顔でひとりひとりに挨拶し、新聞に「当店はライスだけのお客さまを、喜んで歓迎いたします」という大きな広告を出したエピソードが語り継がれている。

後年、関西の財界人の間では「あの頃は阪急の食堂でよくソーライスを食ったなあ!」というのが共通の<思い出話>になった。

*1914=明治43年  山口県岩国沖で潜航訓練中の潜水艇が沈没し佐久間勉艇長ら全員が殉職した。

トラブルを起こしたのは旧帝国海軍の第六潜水艇で深さ17mの海底に沈み艇長以下14名全員が艇内に閉じ込められた。わずか10日前に川崎造船所で竣工し、訓練を兼ねて岩国から広島湾に向かっていた。通常はガソリンエンジンで航行するが、シュノーケル管と呼ばれる煙突を水上に突き出して潜航できるのが深く潜航しすぎたのと手動開閉装置の故障などで浮上できなかったとみられる。

翌日、引き揚げられたが全員が配置についたままの姿勢で死んでおり、佐久間艇長は呼吸が苦しいなかで事故原因や、潜水艦の将来、乗員遺族への配慮を数十ページも手帳に「遺書」として残していた。これが「沈勇」とか「潜水艦乗務員かくあるべし」とたたえられ修身の教科書に載り、軍歌にも歌われた。

  『第六潜水艇の遭難』
  書中に艇と人命を
  そこなう罪を深く謝し
  部下の遺族を思いやる
  言々血あり 字々涙

遺書に感動したアメリカのルーズベルト大統領によって議会で遺書の写しも公開され、議事堂前には顕彰する銅板が設置された。これは太平洋戦争時も撤去されずそのまま置かれた。欧米の海軍武官の間で佐久間はいまも尊敬する日本人のトップに挙げられる。

*1937=昭和12年  来日中のヘレン・ケラーが新宿御苑の観桜会に出席して昭和天皇に拝謁した。

自らも重い障害を背負いながらも身体障害者の福祉活動に尽くしたヘレン・ケラーは<奇跡の人>と呼ばれるが観桜会では直接、何度も桜に触って香りを楽しんで感動した。翌日の読売新聞は「おゝ麗しの桜よ 歓喜に躍る“声”」の見出しで報じた。

このときは横浜港に到着時に待合室で財布を盗まれていたことがわかり、新聞で紹介されたことで全国から現金が寄せられ、帰国までに被害額の10倍以上に達した。さらに欲しいといった秋田犬2頭も贈られてすっかり日本ファンになった。

以来、三度にわたり来日した。同じ障害を持つことで<日本のヘレン・ケラー>といわれた中村久子と会って力づけたほか、来日のたびに障害にめげずに人生を切り開くよう多くの人たちを励まし続けた。

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