“4月17日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1790年 ベンジャミン・フランクリンが84歳で死去、国を挙げての国葬で送られた。
印刷業で大成功を納めたあと政界に進出し、アメリカ独立に多大な貢献をした。政治家、外交官、著述家、物理学者、気象学者・・・肩書きはこのくらいにしておくが、100ドル紙幣の顔であり、60年代まではハーフダラー銀貨にも肖像が使われた。名前をとった原子力潜水艦もある。
米国初の雑誌を出版、フィラデルフィアに初の公立図書館を開設して成功させ、全米の主要都市の図書館のさきがけとなった。発明品では避雷針、ロッキングチェア、遠近両用めがね、フランクリンストーブ、大型楽器の摩擦式グラスアルモニカという<変わり種>もあるが特許は取らず全ての技術を公開した。
何よりも有名なのは凧を使った放電現象の実験だろう。嵐の日に凧への誘導雷で「雷が電気であること」を証明した。もっとも同じ実験で何人もが雷に打たれて亡くなったため余程運が良かったか<実験手順>だけで終わったのではと疑問視する向きもある
*1969年 チェコスロバキアの首都プラハの自由の象徴だった「プラハの春」が終わった。
ソ連によるワルシャワ条約機構軍の一気の侵攻による軍事圧力のなかで帰結をみたチェコとスロバキアの連邦制も結局は<対立の遠因>となっただけでまた元の冬に逆戻りした。遠い島国の日本では軍事介入したソ連の路線を支持する、しないをめぐって進歩派知識人の論争が進んだもののまあ<遠い花火>程度の影響しかなかったか。
首都のプラハはチェコスロバキア全土の自由化を推進したチェコ共産党第一書記ドブチェクの解任で<人間らしい社会主義>をめざす道筋は消え去った。
*1616=元和2年 駿府=静岡に引退後も大御所として実権を掌握していた徳川家康が75歳で没した。
死後、「東照権現」の神号授与で<神>として祀られたが、翌年には「東照大権現」となって神号にさらに<箔>がついたわけです。
俗説は「鯛の天ぷら」にあたって中毒死したといわれる。以後、大奥では<天ぷら厳禁>になった、というのは天ぷら鍋の油に火が入ってボヤを起こしたから火事予防のためのお達しだったから別の話。そもそも家康が豪商の茶屋四郎次郎にすすめられて天ぷらを食したのは鷹狩に出かけた1月21日とされるからいくらなんでも長く苦しみすぎだろう。
みる間に痩せていき、吐血と黒便、腹には大きなしこりがあったと書き残された記録から近年は胃がん説がもっぱらという。
嬉しやと 再び覚めて一眠り 浮世の夢は暁の空
先にゆき あとに残るも同じこと つれて行ぬを別とぞ思う
などの歌を残したところはとても<テンプラ>とは思えませんな、そちらの実力のほうは。
*1937=昭和12年 永井荷風は『濹東綺譚』の映画化や芝居化を断る手紙を書いた。
勧めてきたのは劇作家の川尻清潭だった。荷風の『濹東綺譚』を活動(=映画)か狂言にしてはどうかというものだったがこの日の日記『断腸亭日乗』に
「余は書生役者活動役者のために余が小説の棄損せらるる事をかなしむ也」と。
同じ4月6日には京屋印刷所から『濹東綺譚』の試し刷り50部が送られてきたが
「印刷、製本、ともに甚だよろしからず、人には見せられぬほど粗悪なれば注文は取り消しとなす」と書く。さらに15日には「拙作『濹綺』朝日紙上に出たりといふ」と書いた欄外に「『濹東綺譚』コノ日ヨリ朝日新聞ニ連載」とわざわざ朱で書き込んでいるところをみると、この作品に並々ならぬ思いがあったのだろう。
*1895=明治28年 日清戦争の講和となる「下関条約」が下関の春帆楼で調印された。
清国側の全権李鴻章と日本側の伊藤博文・陸奥宗光が交渉を重ねようやく調印となった。内容は朝鮮の独立承認、遼東半島、台湾、澎湖列島の割譲、賠償金2億両(3億円)の支払い、欧米並み通商航海条約の締結など日本側の要求がほぼ満たされた。
賠償金額は当時の国家予算の3~4年分だったがその大部分を軍事費として使ったから日本の大陸侵略が本格化することになった。