“4月20日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1901=明治34年 わが国初の女子大学として日本女子大学校が開校した。
春雨のそぼ降る東京・目白台の校庭で行われた開校式には、家政、国文、英文の各学部の222名と英文予科の228名のほぼ全員がエビ茶の袴姿で並んだ。生徒たちは全国から集まった18歳から35歳まで、経歴も女学校卒業、元教員、主婦までさまざまだった。
それまでの良妻賢母主義から、人間としての人格形成を<新しい女性像>としてかかげてスタートした。6年以上も設立準備に奔走した創立者の成瀬仁蔵を支えたのは設立発起人・創立委員を引き受けた西園寺公望だった。
西園寺は10年間のフランス留学でリベラルな考えや発想を身につけ、文部大臣当時「科学、英語、女子教育を重視せよ」と言い続けた。「女子を人として、婦人として、国民として教育する」という成瀬の情熱に共鳴。「信念徹底・自発創生・共同奉仕」の教育目標や「智育・徳育・体育を施して人間として欠くべからざる資質を備えさせる」という教育方針は西園寺の理想の実践であり時代の先駆けでもあった。
創立事務幹事に送り込んだ中川小十郎は西園寺家に仕えていた人物で、前年に立命館大学の前身・京都法政学校を立ち上げたばかりだったから嘱託身分としたが、ここにも並々ならない肩入れぶりがのぞく。開校式には西園寺自身も出席した。<宮中参内以外は和装を通した>というから紋付き袴だったか。
注目された体育教育では翌年の第1回創立記念式典のエキジビションとして披露された野球が、わが国はじめての「女子野球」とされ、毎年開催される運動会が東京の名物行事になった。
*1959=昭和34年 旧・国鉄が修学旅行専用電車「ひので」と「きぼう」の運行を開始した。
いずれも155系電車を使用、「ひので」は関東地区用として東海道本線の品川-京都・大阪・神戸間で下り昼行、上り夜行で運転、「きぼう」は関西方面からの上り昼行、下り夜行で運転された。
これで引率の先生も生徒もほかの乗客に気兼ねせず修学旅行に行けることになったが、旅行時間短縮の流れから次第に新幹線に移行され1971=昭和46年10月に廃止となった。
同じ修学旅行電車では近鉄の「あおぞら」、東武鉄道の「たびじ」、旧・国鉄は東北方面から東京への「おもいで」、下関-東京の夜行急行「わこうど」、豊橋・名古屋-広島・下関の「わかあゆ」、山陽本線には小学生専用の「なかよし」、中学生専用の「友情」などというのもあったというのは友人の<鉄道マニア>からの情報である。
*1971=昭和46年 作家・内田百閒が午後5時20分、東京・麹町の自宅で老衰のため急逝した。
81歳。年譜に急逝と書かれるのは老衰とはいえ直前まで元気だったから。中野区の金剛寺にある句碑「木蓮や塀の外吹く俄風」から忌日を木蓮忌という。
鉄道関連ということで紹介するわけではないが、1950=昭和25年から書き続けた『阿房列車』シリーズは戦後の代表作になった。それもあって27年、63歳の時に鉄道開業80周年を記念して東京駅一日名誉駅長に就任、駅長の制服制帽で構内を巡視してご満悦だった。
なんにも用事がないけれど、汽車に乗って大阪に行って来ようと思ふ。(『特別阿房列車』)
という大阪行きは、用事がないのに出かけるのだから一等車で行くが、向こうへ着いたら必ず帰って来なくてはならないから、帰りの片道は冗談の旅行ではなく東京に帰るという用事があっての旅行なので三等で帰ってくる、という独特のユーモアが受け、鉄道ファンだけでなく愛読者を増やした。九州を筆頭に、四国、山陰、東北と北海道以外は繰り返し出かけている。
汽車に乗る時は機関車から最後尾の車両までホームから検分してからおもむろに。酒豪らしくお供の<ヒマラヤ山系>こと作家・平山三郎を相手に魔法瓶に入れた酒を酌み交わし、空になると食堂車に居続けたなど多くのエピソードを残した。
筆名の百閒は故郷・岡山の旭川放水路の百間川から。もうひとつの筆名・百鬼園で書いた『百鬼園随筆』、失踪した愛猫を悲しんだ『ノラや』、その後に居ついたものの病死したクルツのことを綴った『クルやお前もか』も代表作に。
健啖家らしく出入りのうなぎ屋から「かば焼き」を月に27日連続で出前してもらったので告別式当日には「お棺のなかに入れてあげてください」とふた重ねが届いたとか。