“4月30日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*670=天智天皇9年 未明に奈良・斑鳩(いかるが)の法隆寺が全焼した。
聖徳太子ゆかりの寺院で多くの観光客を集める。世界最古の木造建築群としてユネスコの世界遺産に登録されてさらに有名になった。最初の火事の記録は『日本書紀』に「災法隆寺一屋無餘」つまり、建物はひとつ残らず焼亡したとある。火災にあわなければもっと古かったわけだがそれは歴史の<たら、れば>のたぐい。明治以来、長く続いた再建されたかどうかを巡る論争や、もともとの位置はどこだったのか、誰が何の目的で建てたのかなど解明されない謎も多い。聖徳太子の怨霊鎮めが建立目的だったとした『隠された十字架』(梅原猛、1972)が話題を集めた。
正岡子規は「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」の句を残した。7年間もの闘病生活を過ごした子規は「糸瓜咲て痰のつまりし仏かな」の辞世の句が知られるが、法隆寺に遊び、柿を頬張りながら斑鳩の風景と歴史を“味わう”ひとときもあった。薫風に誘われて久しぶりに歴史ロマンを求めに斑鳩の里に出かけてみるのもいいか。
*1959=昭和34年 断腸亭主人・永井荷風が市川市八幡の自宅において79歳で亡くなった。
紺色の背広姿で書斎に敷きっぱなしの万年床の上に横たわり、かたわらにはいつも持ち歩いていた2,334万円の預金通帳と現金31万円入りのボストンバッグが置かれていた。荷風自身は体調不良に気づいてはいたが、友人らの入院治療の勧めには一切耳を貸さなかった。実弟の永井威一郎は「医者に診てもらうことを断ったのは、他人からとやかく勧められることのきらいな頑固な性格と老人特有のものぐさとで自己の健康管理を怠ったため招いた事故」といい、作家・佐藤春夫は「自然死による覚悟の自殺」と『小説永井荷風伝』に書いたが胃潰瘍の吐血による窒息死だった。
<事故>にせよ<自殺>にせよ、最後までマイペースを通した。書き続けた日記『断腸亭日乗』は、前日の「四月廿九日。祭日。陰(くもり)。」が最後になった。この日も行きつけだった近所の食堂「大黒家」で、かつ丼並と上新香で日本酒一本を飲んだ。店ではいまも同じメニューの「荷風セット」が人気という。
岩波書店などから全集が刊行され関連書籍も多いが<公刊されない類の作品>として「金阜山人」の筆名で書いた『四畳半襖の下張』が有名だ。発禁本コレクターの城一郎は著書『禁じられた本』(1966、桃源社)で「九分九厘まで荷風の作品」として<戦後発禁本・ベスト10>のトップにあげ「春本の芸術祭参加作品。ポルノグラフィーはかくあれ、という見本みたいな逸品。作家の尾崎士郎がリアリズムの極致だよと激賞した」と解説している。
『断腸亭日乗』には霊柩車、葬式、骨拾い、墓石、死亡広告など<一切無用>と書かれているが、日記に凌霜子としてしばしば登場するなど親交のあった相磯凌霜(あいそ・りょうそう)が葬儀の段取り一切を取り仕切った。没交渉ではあったが元官僚の父親も眠る雑司ヶ谷霊園の永井家の墓地に葬られた。
本人が「葬られたい」と希望して生前に何度も訪れた旧・吉原遊郭近くの通称・投げ込み寺=浄閑寺(荒川区南千住)には遊女らを祀る「新吉原総慰霊塔」向かいに42名の発起人により詩碑と筆塚が建立された。こちらは住職らの発案で命日には「荷風忌」が営まれる。
*1189=文治5年 源義経が平泉・衣川館を藤原泰衡に攻められ妻子とともに自害した。
義経の首は酒に漬けて黒漆の櫃に納められ43日かけて鎌倉に送られ腰越の浦で和田義盛らによって実検が行われた。
しかしそれは影武者の杉目太郎のものだった・・・義経主従は三厩まで落ちのび、さらに蝦夷地へ渡って日高の地に入った。<義経伝説>は時代を超えて蘇る。大衆の判官びいきもあるに違いないが義経の事績を謡いながらみちのくの浦々を巡った奥州浄瑠璃の語り手たちの足跡につながる。虚構であっても厳しい風土に根を下ろしロマンの花を咲かせる。
*1897=明治30年 戦艦富士の軍楽隊により行進曲「軍艦」が初めて演奏された。
別名「軍艦マーチ」「軍艦行進曲」いい帝国海軍の軍楽師だった瀬戸口藤吉が作曲、戦前盛んに演奏されたことで広まった。日米開戦時8.15にも繰り返しラジオから流れたが、1983=昭和58年に当時の中曽根首相が訪米した際、中曽根が海軍主計少佐だったことからアメリカ海軍軍楽隊がこの曲を演奏して歓迎した。
パチンコ店でしきりに流れたのもこれ。もっとも歌詞のほうは「守るも攻めるもくろがね(黒鉄)の」しか知らないけれど。作詞は博物学者・南方熊楠の恩師でもある和歌山県田辺市出身の鳥山啓(ひらく)で、著作権はポリドールから海軍省、大蔵省と移って現在は財務省にあるとか。こちらは<守るも攻めるも>はなさそうである。