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“5月3日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1946=昭和21年  東京市ヶ谷台の元陸軍省大講堂で極東国際軍事裁判が開始された。

東京裁判ともいわれ4月29日にA級戦犯として起訴された東条英機元首相以下28名が裁かれることになった。連合国側からはアメリカのキーナン首席検事をトップとする検事団にオーストラリアのウェッブ卿を裁判長とする判事団が任命された。裁判は実質的には占領軍による軍事裁判でこの日から8か月の長丁場が予定されていた。

このなかでただひとり民間人として起訴された思想家の大川周明は水色のパジャマ姿、素足に下駄ばきで出廷した。いきなりパジャマを脱ごうとしたり意味不明な英語を叫んだと思えば奇声を発したり。挙句の果てには休廷中に前の席に座っていた東条の頭を何回も叩くなど<異常行動>があったから重苦しい法廷は一転、爆笑の渦になった。

狂人を装うことで裁判を逃れようとしたのか、占領軍による一方的な裁判に抗議したのかなどその狙いは分からずじまいだったが裁判長からは退廷を命じられた。その後は東大病院などで精神鑑定を受けたが裁判からは外され、起訴されながら有罪を免れた唯一の人物になった。

とにかく色々あったが裁判長の“ BE SILENT!”(=静粛に)が連発された日となった。

*1930=昭和5年  琵琶湖産の稚アユが<空を飛んだ>として話題になった。

現在のようにビニール袋に水と酸素を入れて運ぶ技術がなく、道路事情も悪かった当時としては生きたままの稚アユを大量に、しかも死なせずに運ぶことは至難だった。そこで登場したのが水上飛行機による空輸のアイデアで、大阪毎日新聞はこう紹介している。

着水せる水上飛行機にズック製タンクを備へつけ、はつらつたる小鮎一万匹を収容し、十貫余の水で冷温を保つといふ活魚輸送上に画期的新機軸を考案したものである。

ところで水上飛行機は「水上を離着陸(水)する」のだから<着水>したのは長良川か木曽川の河口のあたりだろうと思ったが、長良川は岐阜県、木曽川も一部は愛知県もあるがいずれも河口付近は海水も入り込む「汽水域」で、真水に住む鮎には具合が悪い。技師たちも当然それは考えたはずだと調べたら中外商業新報の記事がようやく見つかった。

こちらはさらに詳しい。空輸実験を計画したのは愛知県水産課で3日にまず1回、4日は朝8時から午後3時まで3回の計4回行い、4万5千匹を運ぶことに成功した。琵琶湖の姉川河口を飛び立った水上飛行機は愛知県西加茂郡猿投村越戸にわずか40分で到着したとある。

ほぼいまの新幹線のルート、関ヶ原を抜けて濃尾平野へ。到着地は判明したが着水場所はあるのか。猿投村は現在の豊田市で「さなげ」と読む。愛知県の中央を流れる矢作川の中流域だが、水量があるとは思えなかったのでGoogle地図で調べたら「中部電力越戸ダム」というのが見つかった。ダムは4年がかりの工事でこの前年に完成、発電所も稼働しているからダム湖には当然水があった。しかも県のほぼ中心部だから各河川への稚魚放流などにも便利だった。ダム湖の名前は「三水湖」といい、右岸に魚道もあって毎年春にはアユの遡上も見られるそうだからこのときも放流されたはず。

ここまで<推理>して愛知県水産試験場に聞いてみると「創立100百周年記念誌」(1994.年7月)に当時の記録があることを教えていただいた。結論から紹介すると<ほぼ正解>。それまではトラックの荷台に水を入れた「麻製ズック」2個を乗せ、2名の補助員が圧搾空気を調節しながら途中5~7か所で水を替え、氷で水温調節しても8~15時間かかった。しかも3%程度のロス=死魚が出ていたのが空輸だと初日のロスはゼロで画期的だった。

ダムの旧名は三河水力発電所。そもそもなぜ空輸実験となったかというと相次ぐ発電ダムの建設で各漁協が鮎の遡上に悪影響があるのではと心配したからと。だからというわけでもなかろうが着水場所がダム湖だったわけである。

*1951=昭和26年  マッカーサー元帥が米上院の軍事外交合同委員会で証言した。

主要な内容は前年6月に発生した朝鮮戦争についてだった。マッカーサーは緒戦の仁川上陸作戦には成功を収めたもののその後は中国人民志願軍の参戦を招いた。さらに旧満州への空爆などを主張したことで4月11日に解任され連合国軍最高司令官の座からも追われて日本を去っていた。委員会での証言は膠着していた朝鮮情勢に展望が見られない責任を追及するものだった。

3日間にわたる委員会の中でマッカーサーは日本について「アングロサクソンが45歳の壮年とすれば日本人はまだ12歳の少年である」と発言した。ところがこれはほとんど報道されることはなく、上下院の合同会議での退任演説での「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」やニューヨーク・マンハッタンでアイゼンハワー凱旋の4倍、約700万人が歩道を埋めたなどマッカーサーの<いい面>ばかりが紹介され続けた。

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