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“5月5日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1786=天明6年  最上徳内が日本人としてはじめて択捉島に上陸した。

前年に第一次蝦夷地巡検使に加わり蝦夷地=北海道でひと冬を越し、アイヌの人たちの助けを借りて国後島から択捉島へ渡った。両島の間には急潮で知られる国後水道がある。行商のため蝦夷地に詳しかった最上はアイヌ語が話せたので彼らの協力を得て渡海を成功させることができた。

出羽(山形)の貧しい農家の長男だったが、弟らに家を任せて奉公に出て学問を積んだ。最初は下人扱いで同行した蝦夷地調査は、現地語にも堪能で交渉手腕が評価された。最上が蝦夷地へ渡ったのは幕府の命を受けただけでも計8回に上る。なかでも1792=寛政4年には、ロシア使節・ラックスマンが日本人漂流民の大黒屋光太夫らを連れて来たのを迎えた。1798=寛政10年には近藤重蔵を助けて再び択捉島に渡り「第日本恵登呂府」の標柱を建てたことが特筆される。

幕府にとりたてられ武士となった数少ない人物の一人として司馬遼太郎の『菜の花の沖』にも描かれている。

*1873=明治6年  深夜、皇居の紅葉山の柴小屋から出火、諸建物を焼き5時間後に鎮火した。

この火事で皇居が全焼して女官1人が焼死、2人がやけどを負い赤坂離宮が仮皇居とされることになった。天皇、皇后は未明に馬車で避難し、神器なども持ち出されて無事だった。小屋に納入したわら灰が原因とされ納入業者らが処分されたが、火の気がまだ残っていたというのも解せない話ではある。

*1928=昭和3年  人見絹枝が日本オリンピック大会の陸上400mで59秒00の世界最高記録。

大会は奈良・美吉野陸上競技場で開催された第5回大会で人見は陸上100mでも12秒4の非公認ながら世界最高記録、走り高跳びで1m43、やり投げ28m89で三種競技にも優勝するなどスーパーアスリートぶりを発揮した。

こう書くと「オリンピックの銀メダリストじゃなかったの?」と思われるかもしれないが、それはこのあと8月2日のこと。オランダで開催されたアムステルダムオリンピックに出場、陸上800m決勝でドイツのリナ・ラトケに次いで2分17秒6を出して日本人女性初の銀メダルに輝いた。

*1944=昭和19年  戦時下の東京に国民酒場第1号が登場した。

「統制販売制」だった酒類を大蔵省が業務用酒の半分を都会地の一般勤労者用に回すことで行政主導の酒場がつくられた。一人当たりビール1本か酒1合に制限されてはいたが開店前の大行列を警視庁が取り締まるほどの盛況ぶりだった。6月末までに全国に126ヵ所が開設された。

後に首相になる大平正芳は当時34歳。大蔵省の東京地方酒類委員会の委員をしていた。「業務用酒の効率的配給要項等立案、都内104カ所の国民酒場創設に尽力」と年譜にあるのでほとんどは首都圏の東京、横浜にあったようだ。その理由のひとつは地方の酒蔵が酒米の入手難などで休止に追い込まれるなか業務用の酒は東京・駒込にあった理化学研究所で作られていたことがあげられる。主力は「新進」というブランドの通称・理研酒と呼ばれた合成酒だったから国民酒場も<輸送効率のよい>首都圏中心に設置された。

一方で運営はそれまでの居酒屋経営者たちが担当していたこともあって、なんとか自分の店に回したいばかりに酒は出したがらず、当時はいまひとつ人気のなかったビールばかりが出された。しかも「なんだよ、泡ばかりじゃないか」というトラブルや、坂口安吾が『白痴』に書いたように「その顔役は幾つかの国民酒場を占領して行列の人民共を睨みつけて連日泥酔してゐた」などの不明朗な実態もあった。

それまでの日本酒はアルコール分22度から27度あたりまでの度数の高いのが大半だった。ところが戦時中になると物資不足に便乗するように水を加えて14度と16度に統一された。つまり<水割りで量を確保した>というのがそのまま現在に至るというわけである。

*紀元前278年  中国・戦国時代の政治家で詩人の屈原が汨羅(べきら)の淵に投身自殺した。

その霊を慰める祭りが端午の節句の起源で人々が入水した屈原を救おうと先を争って船を出したのがドラゴンボート=龍船競争のはじまりという。本当かねえ。

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