“5月11日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1891=明治24年 ロシア皇太子ニコライが警備の巡査に襲撃された「大津事件」が起きた。
事件は午後1時50分ごろ滋賀県大津町(現・大津市)の繁華街で起きた。来日中の皇太子一行は琵琶湖の日帰り観光を楽しんだあと滋賀県庁で昼食を済ませ、人力車を連ねて京都の常盤ホテル=現・京都ホテルオークラに戻る途中だった。通りは皇太子たちを一目見ようという人々が両側をぎっしり埋めていた。突然、雑踏警備にあたっていた滋賀県警察の巡査・津田三蔵がサーベルを抜き皇太子に切りかかった。これに驚いて人力車から飛び降り、脇の路地に逃げ込もうとした皇太子をさらに襲おうとしたが、皇太子の甥でギリシャのジョージ王子が土産に買った竹のステッキで津田巡査の後頭部などを打ちつけ、人力車夫らが取り押さえた。皇太子は頭部に傷を負って血だらけになったものの命に別条はなかった。
来日はシベリア鉄道の起工式典に出席するためロシア海軍の艦艇を率いてウラジオストクに向かう途中の<私的訪問>だった。長崎と鹿児島に寄港したあと神戸から京都に入った。政府は皇族の海軍大佐・有栖川宮威仁親王を接待役として随行させ、京都では季節外れの「大文字送り火」まで行われた。私的とはいえまさに国の賓客だったわけである。
津田巡査は三重県出身で西南戦争に従軍して軍曹に昇進、勲位を受けていた。当時は戦死した西郷隆盛が実はロシアに逃げ延び、皇太子らと一緒に帰国するのではというデマが広まっていた。ロシアが後ろ盾になれば西郷は復権し、ひいては自分の勲位が剥奪されると思い込んだとか、強硬路線を歩むロシアの極東政策を<懲らしめてやろうとした>などともいわれた。
海外留学や軍事視察で国際関係に精通していた威仁親王は事件が重大な外交問題になると判断して天皇に電報で事件の顛末を上奏した。天皇は急遽12日夜に京都に到着、翌日には皇太子を見舞い、東京訪問を中止して神戸からウラジオストクに向かうことになった皇太子をわざわざ神戸港まで見送った。さらに乗艦して見舞いをしたいという天皇に対しては<そのまま拉致される>と心配する側近も多かったが「大丈夫である」と制して旗艦・アゾーヴァ号に向かう一幕もあった。
小国の日本が大国ロシアの皇太子を負傷させたことで「報復にロシアが攻めてくるのではないか」と国中に激震が走った。謹慎の意を表し学校は休校になり、社寺や教会では皇太子平癒の祈祷が行われた。新聞はこぞって「犯人の津田を死刑に処すべし」の記事を書き立てた。
そんななかで「ロシア皇太子に死をもってお詫びする」と千葉・鴨川出身で当時27歳の畠山勇子が20日夜、京都府庁で首を刺して自殺するという珍事件まで起きた。ロシアに宣戦布告されたらたちまち国が滅んでしまうという憂慮が高じてとされる。
これをまた新聞各紙は「烈女勇子」とか「房州の烈女」と争うように書くなかで、27日には全国民が注目する津田巡査の裁判が行われることになるが、それは「当日」のところであらためて。
*1955=昭和30年 宇高連絡船「紫雲丸」が沈没して修学旅行生ら168人が犠牲になった。
現場となった瀬戸内海は、春先の寒暖差で濃霧が発生しやすい海域として知られている。この日も早朝から濃霧が予報され、注意報が警報に変わるなかで旧・国鉄の宇高連絡船の二隻がさしかかった。高松港を出た上りの「紫雲丸」には小中4校の修学旅行生を含む乗客781人と乗員60人が乗っていた。下りの大型貨車運搬船「第三宇高丸」は宇野港を出て、汽笛を鳴らしながら航行していた。
「第三宇高丸」の船長が「紫雲丸」に気づいたのはわずか100m手前で、直ちに停止しようとしたが間に合わず後部に激突した。衝撃で「紫雲丸」の船腹には大きな穴が開きすぐに浸水、電源装置の爆発で艦内は停電してわずか6分後に沈没した。犠牲になった生徒は女子がほとんどで、混乱のなかで救命胴衣を着けながらも逃げ遅れた。引率の教諭のなかにはいったん逃げたあとで引き返して亡くなったケースもあった。
沈没の瞬間をたまたま撮影した新聞記者の写真が新聞などに大きく掲載されたことで、遺族からは写真を撮るより救助が先ではないかという「人命救助と報道」を巡る論争が起きる一幕もあった。
海難審判では衝突までの双方の操船状況について直前の回頭などいくつかの<なぜ>が争われた。しかし、沈没時に「紫雲丸」の船長が退船を拒否して船と運命をともしたこともあり、双方の船長の過失として終わった。その後、引き揚げられた「紫雲丸」は、船名を「瀬戸丸」に変えて引退するまで11年間無事故で運航された。
事故をきっかけに本州と四国を結ぶ本四架橋構想が急浮上した。なかでも瀬戸大橋が最初に架けられたのは、経済効果以上にこの事故の記憶があったからともいわれている。