“5月12日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1927=昭和2年 アメリカザリガニが米ミシッピ州ニューオリンズから初輸入された。
鎌倉市の養殖場がウシガエルの餌用に数十匹のつがいを取り寄せたがその後、逃げ出してしまったのが繁殖した。同じように肝心のウシガエルも逃げ出したというから管理がずさんだったか。アメリカザリガニのほうは1960=昭和35年には九州まで分布域を広げているという調査結果もあるから旺盛な繁殖力には驚くばかり。
思うに<天敵抜き>で国内に持ち込まれたから増えすぎた。「天敵はアリゲーターなどのワニ」なんて言われるとそりゃ無理だわ!となるが、これは冗談。いまさら天敵を輸入しても手遅れだけど。
*1957=昭和32年 第26回早慶レガッタは強い風雨と波のなか永代橋をスタートした。
序盤は慶応がリード、1,600m地点の浜町では4艇身の差がついた。しかしここからは逆風が強くなる。波を切るはずの舳先を乗り越えて容赦なく水が入り、艇が水浸しになると見る間に速度が落ちていく。一方の早稲田は漕いでいるのは半分の4人だけで前後のペアはアルミカップで水を掻い出す<排水役>に徹していた。やがて慶応に追いつき追い越していく。慶応クルーはシャツを脱いで水を絞り出そうとしたが追いつくはずもなく間もなく沈没、いうところの「沈」である。早稲田は排水の甲斐あって何とか6,000mを漕ぎきってゴール、審判も勝利を認定した。
早稲田漕艇部は「何としてでも目的地=ゴールに着けるのがボートマンシップである」
慶応漕艇部は「全員が最後までオールを休めず漕ぎ抜くのがボートマンシップである」
と対照的だった。この差が出たのがまさにこのレースだった。
「不可抗力のアクシデントだったから好天の日に改めて再試合を」と申し込んだ早稲田に、慶応は「負けは負け、審判の判断に従う」と断った。この逸話は『あらしのボートレース』として小学校の国語の教科書に紹介されたが、慶応クルーはこれに懲りて以後は排水用のカップを積み込むようになった。
ところが1980=昭和55年の第49回が似たようなコース状況になった。仕方なくこんどは2人を当てて水をくみ出そうとしたがゴール前100mで「沈」してまた苦杯をなめた。結果的にこの<排水の陣>は早稲田の勝利で<排水力も実力のうち>となった。
*1863=文久3年 長州藩士の伊藤博文、井上馨ら5人がイギリスに向けて密航した。
伊藤らは藩に出入りしていた横浜にあった貿易商ジャーデン・マディソン商会の裏門から英国船に乗り込んだ。伊藤の持ち物はその前年に発行された『英和対訳袖珍辞書』と寝巻だけだった。この辞書は間違いだらけと酷評される代物だったが上海で船を乗り換えロンドに到着すると化学者のウィリアムソン邸に寄宿して英語や礼儀作法を学んだ。博物館や美術館だけでなく官庁、議会、海軍施設、工場などを見学してどこでも目を見はり、攘夷を叫んで走り回っていた考えを捨てた。
「ロンドン・タイムス」の記事から生麦事件で英人を殺傷した薩摩が報復攻撃を受けて惨敗したこと。長州藩も下関で外国船を攻撃したから、その報復作戦を英仏米蘭が計画していることなどを知った。「そんなことになったら藩はつぶれてしまう。何としてでも止めなければ」伊藤と井上の2人が3ヶ月がかりで帰国すると横浜の英国公使館に飛び込んだ。
公使館側は外国船で長州沖の島まで送ってくれたが藩主は聞く耳を持たなかった。逆に攘夷で湧きかえる藩内過激派から命を狙われる羽目になり、身分が低かった伊藤はからくも姿を隠せたが井上は切りつけられ重傷を負った。
密航した5人はのちに「長州五傑」と評される活躍をするが伊藤の英語力を紹介しておくと明治政府で大蔵大輔として1870=明治3年にアメリカで金融問題を調査、翌年には岩倉視察団の副使として渡米し演説をしている。もう辞書など必要なかったのだろう。
*1962=昭和37年 23歳の堀江謙一が小型ヨット「マーメイド号」で西宮をひそかに出港した。
奇しくも<密航ネタ>が重なったが出港は午後8時45分、太平洋単独横断でサンフランシスコを目ざした。当時はこうした冒険航海には日本政府のパスポートが発行されず形のうえでは<密出国>だったから二人の先輩だけが夜陰にまぎれてこっそり見送った。
「マーメイド号」は94日目にサンフランシスコに無事到着した。ベストセラーになった航海記『太平洋ひとりぼっち』を読んで熱くなったものです。ソロセーラー・ヨットマンで海洋冒険家の堀江サンは「航海は年齢が3桁になるまでやるつもり」と言っているから航海はまだまだ続きそうだ。