“5月21日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1927年 リンドバーグがニューヨーク―パリ間の初の大西洋単独無着陸飛行に成功した。
パリのル・ブルジェ空港に着陸したのは現地時間の21日午後10時21分。5,810キロを実に33時間29分30秒かけて飛行し、パリの灯を頼りにようやくたどり着いた。睡魔と闘い、翼の着氷や推測航法のずれに悩みながらだからまさに超人的快挙だった。
無名のリンドバーグにはほとんど出資者がいなかったため大型機は用意できず、自力で改造した単葉単発単座の「スピリット・オブ・セントルイス号」の操縦席前に燃料タンクを増設した。そのため座席から前方が見えなくなったので側面窓の視界だけが頼りだった。渋々、不時着に備えて膨張式の救命筏だけは載せたが重量を軽減するため無線機、六分儀、パラシュートなどの機材はあえて積まなかった。
深夜にもかかわらずニュースを聞いて詰めかけた観客は空港に入れなかった人も含めて75万人とも100万人ともいわれる熱狂的な大歓迎だった。この成功でリンドバーグは「オルテーィグ賞」と賞金25,000ドルをもらったが、一躍世界的英雄になったことでその後の長男の誘拐事件など悲劇に巻き込まれることにもなるがこれは余談。
自伝『翼よ、あれがパリの灯だ』は邦訳のタイトルというだけで、ピュリッツァー賞を受けた原作=『The Spirit Of St.Louis』にはその表現はかけらもないのだそうだ。1957年のビリー・ワイルダー監督のイギリス映画のタイトルも『翼よ!あれが巴里の灯だ』でパリが漢字になっただけだから<日本人受けする題名>ということか。25歳のリンドバーグ役を48歳のジェームズ・スチュアートが演じて「<48歳の青年>の演技は見事というしかない」と激賞されました。
パリ到着後に真っ先に口を開いたリンドバーグは「誰か英語が話せる人はいませんか」と話しかけて本当にそこがパリに間違いないかを確かめようとした、というのと「トイレはどちらですか?」の二説があるそうだ。ま、その前に「翼よ、あれがパリの灯だ」とつぶやいたことにしておいて欲しい。せっかくの感動シーンなのだから。
*1869=明治2年 京都に日本ではじめての小学校が開校した。
この日開校したのは中京区の柳池(りゅうち)小学校で現在の柳池中学の前身。鳩居堂の熊谷久右衛門がすべての費用を京都府に寄付した。
京都市内には12月までに予定された64校すべてが完成して次々に開校した。しかもすべてが同じように「町衆」の寄附によって建てられた。
学校を作るということは費用の捻出から、土地の手当て、カリキュラムの作成、教員手配その他もろもろある。だからそれをそろってやり遂げたというのはいくら自治の伝統があるといっても特筆すべきこと。「開校一番」だけでは申し訳ないので紹介しておく。
当時の「ひいては自分の子女のため!」がいまは「ひいきは自分の子女にだけに!」。いつから変わったのでしょうねえ。
*1928=昭和3年 細菌学者の野口英世が黄熱病のため西アフリカ・ガーナの病院で死去した。
本名は清作。22歳の時に知人からすすめられて坪内逍遥の流行小説『当世書生気質』を読んだ。弁舌を弄して借金し、自堕落な生活を送る登場人物の「野々口精作」が自分の名前に酷似しており、自身も同じように借金を繰り返して遊郭に出入りするなどの<悪癖>があったことから強い衝撃を受けた。他人から見れば<考えすぎでは>と思えるが、この小説のモデルではないかと邪推されることを懸念して改名に踏み切ったとされる。
検疫医官だった22歳のとき、横浜港に入港した客船の乗客からペスト患者を発見、診断したことで評価を得て国際防疫班に選ばれるが支度金を放蕩で使い果たしたため借金をして清国に渡航した。生涯に発表した論文は186編にものぼり3度もノーベル生理学・医学賞の候補になった。存命なら黄熱病の治療法も発見できたのではないかといわれた。
一方で<放蕩と借金>はそれからも何度もあるので彼自身の中にはもうひとりの人物=野々口精作がいたのか。借金の天才でもあったので2004年に千円札の肖像になったときにはびっくりした人も多かった。
皮肉なことに黄熱病のワクチンは野口説を批判した南アフリカの微生物学者マックス・タイラーが開発に成功して1951年にノーベル生理学・医学賞を受賞した。
「志を得ざれば再び此の地を踏まず」は上京の際に猪苗代の実家の柱に彫り込んだことばだ。西アフリカ・ガーナのアクラで倒れた天才はニューヨークのウッドローン墓地に眠る。51歳だった。