“5月23日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1906=明治36年 日光・華厳の滝で旧制一高生の藤村操が木の幹に残した遺書を発見。
藤村は北海道出身で18歳、亡くなった父親は屯田銀行の頭取という恵まれた家庭に育った眉目秀麗のエリート学生だった。日光の旅館から東京の自宅あてに華厳の滝から投身自殺することを詫びる手紙が届いたため心配した伯父らが現地の警官や人力車夫らと捜索していた。滝の落ち口の大岩にコウモリ傘と自宅から持ち出したとみられる硯と墨、筆、大型ナイフが置かれ、すぐそばのミズナラの幹を削って墨で遺書めいた文言「厳頭之感」が書かれていた。
厳頭之感
悠々たる哉天壌、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以て此大をはからむとす、
ホレーショの哲學竟に何等のオーソリチーを價するものぞ、
萬有の眞相は 唯だ一言にして悉す、曰く「不可解」。
我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。
既に厳頭に立つに及んで、胸中何等の不安あるなし。
始めて知る、大いなる悲観は大いなる樂感に一致するを。
この<美文>によるとどうやら<哲学的な悩み>で自殺すると読めたが、滝壺への投身はそれまでなかったため、新聞や雑誌先行で世間の注目を集めることとなった。「厳頭之感」が写真入りで紹介されたおかげで青年や学生たちの間では「煩悶」や「曰く、不可解」ということばが流行した。
藤村の遺体が見つかったのは7月2日。警察は<後追い>や<模倣>を恐れてこの樹を切り倒したがすでに遅く、自殺希望者が押し寄せて「自殺の名所」になった。4年間でその数185人にのぼり、うち実際に飛び降りたのが40人もいたと『都新聞』が伝えている。
原因は哲学的な悩みだったのか。一高の英語担任で藤村の家出の数日前に、君の英文学の考え方は違うと叱った夏目漱石もそれを気にして後に神経衰弱になった一因などとされる。しかし『吾輩は猫である』に「打っちゃって置くと厳頭の吟でも書いて華厳瀧から飛び込むかも知れない」とからかい気味に書いた。『草枕』には「その死を促す動機に至っては解しがたい」などと触れているところからみると事件を引きずっていたとは思えない。他にもプラトニック・ラブ失恋説などもあり、本当のところは<曰く不可解>のままだ。
*1946=昭和21年 初の<キス映画>として話題になった松竹の『はたちの青春』が封切られた。
GHQが「キスシーンを入れることを厳命した」といわれ“本邦初の接吻映画”が宣伝文句だったこともあり、封切り映画館はどこも超満員になった。
実はこのすぐ前、5月初めに大映から『或る夜の接吻』という題名がそのものズバリの映画が公開されて映画館は若い男女で同じように超満員になった。戦地で散った戦友から復員したら妹を幸せにしてやってくれと託された詩人=若原雅夫が妹=奈良光枝をようやく探し出し、雨の中で・・・というシーン。奈良の唇が近付いた瞬間、若原の傘がかしいで顔を隠してしまう。<それだけ>で終わったので期待はいやがうえにも高まった。
監督は「早撮り名人」といわれた佐々木康、主演は幾野道子と大坂志郎で観客全員がそのシーンを<固唾を飲んで>見守ったわけです。ふたりが大写しになり、ようやくチュ!するまでが結構長かったそうで。
撮影での苦労話インタビューに幾野は「ガーゼを唇に貼って、あくまでも間接的接吻をしました。監督さんもこのシーンだけは時間をかけて、何回もやり直しましたがうまく撮れてよかった」と舞台裏を明かしている。それまでの幾野評は「特にこれといった特徴も強烈な魅力にも乏しいが仕事熱心で会社からはかわいがられた」というだけだったが、この歴史的1カットのゆえにその名が日本映画史上に残った。
とにもかくにも敗戦国民の若者たちはGHQの粋な計らいに胸を高鳴らせたので、この映画の封切りを記念して5月23日は「キスの日」。
*1695=元禄8年 6代将軍綱吉の「生類憐みの令」に伴い四谷に犬の収容施設を作った。
広さは2,500坪で1ヘクタール弱だったが10月に中野に作ったのは16万坪、60ヘクタールもあった。収容したのは約10万頭で、食費だけで年間9万8千両に上った。
綱吉自身も100匹のチン(狆)を飼っていてとにかく犬好きだったことは確かだが、江戸市中にはこの数倍の野犬が横行していたため被害が絶えず、その対策という側面があったともいわれる。「生類憐みの令」という法律はなく、いくつかのお触れの総称ではあるが23年間にわたって続いた<悪法>だったことは間違いない。