池内 紀の旅みやげ (11) ギッコンバッタン ──長野県・軽井沢町
自分では「一つめ小町(こまち)」と名づけて、旅先で町を歩くときのルールにしている。表通りから一つ裏手に入ること。そこにきっと「小町娘」が待っている。
表通りは実用一点ばりで、どこもたいてい同じである。歩いてもただ疲れるだけ。車も多い。裏手といっても奥の住宅地などは、わざわざ足を運ぶまでもない。表通りから一つ裏がキーポイントだ。そこには個性派がいる。好みの店を自分の流儀でやりたい。やや変わり者で町の人に「へんくつ」といわれるタイプ。客筋もだいたい似た者同士が主流になる。世の少数派だから店はいつもカンコ鳥が鳴いている。はたして経営が成り立つのか心配になるほどだが、当人はノホホンとしていて、それなりに店がつづくから不思議である。
軽井沢から駅一つ西寄りが中軽井沢。以前は沓掛(くつかけ)という由緒深い、味のある名前だったのに、つまらない改名をしたものだ。駅前の通りの一つ裏手。まず駅で、つぎに通りでルールを実践したことになるが、喫茶店に入りかけてギョッとした。張り出し窓の前にまっ裸の二つのお尻が上下にかさなりあっている。上のお尻は両足を蹴上げたあられもないスタイル。脚の間から相手の顔がのぞいている.
よくみると、張り出し窓の前に木製の台があり、その上に石膏像がのっていた。
二つの人像が「ギッコンバッタン」をするかたちで複雑にからみ合っている。人像はどちらもほぼ等身大で、その合体だからけっこう大きい。見る位置によっては、セックスの際の微妙な体位ととれなくもない。あくまでも人体ポーズの一例として制作されたのだろうが、全裸のからみ合いは、どうしても性の風景に似てくる。
もともとの色はわからないが、現況は濃い褐色で、全体がハゲハゲになっており、たがいが掻きむしり合ったふうにもとれる。下の台もかなり古びており、長らく雨ざらしになっていたのだろう。古びた板にはタイトルと制作者の名前が見えた、
ドアを押すと、ここちいいコーヒーの香り。右がカウンター、左にテーブルと椅子が五つばかり、背の高い本棚が仕切りを兼ねていて、手塚治虫が単行本、全集とりまぜて三段を占めている。
それはいいとして、声をかけても応答がない。人はいるのだ。奥まったところにシルエットのような横顔がのぞいている。もう一度声をかけたが、シルエットは端然として動かない。手塚治虫のほかにも、こちらが若いころに愛読した本が並んでいる。どうやら同じ世代とみえる。
三度目でやっと返事があった。のぞいている横顔ではなく、もっと奥からで、つづいて主人があらわれた。予想通りの齢ごろ、ぼさぼさの頭、くたびれたセーター、のんびりした顔つき。コーヒーの手順は本格的で、やがて挽きたてのコーヒーのくすぐったいような匂いが店内にただよった。
香りを楽しみながらいただいているうちに、どちらからともなく口がほぐれた。奥は碁会所で、軽井沢近在の碁好きがやってくる。主人は日本棋院の支部長を拝命している。
「支部長というのは強いのでしょう?」
首を振って、自分はやっと四十で始めたからと理由を述べた。幼いころからやらないと、本当に強い碁打ちにならないそうだ。それでも五段クラスと勝ったり負けたりというから、相当強いわけだ。はじめて知ったが、同等が対戦するときは先手が圧倒的に有利だそうだ。五目並べがせいぜいの人間には、「有利」のしくみがわからないが、囲い取りのつばぜり合いをするとなると、たしかに先にかかった方がトクである。
なかなか博学の人で、旧沓掛宿のことをたずねると、いろいろ歴史的エピソードを話してくれる。そのうち奥から「オーイ、どうするんだ」と声がかかった。対戦中の相手が待ちくたびれたのだ。ひとこと「おりた」と答えて、たのしげに昔ばなしにもどった。
おもての彫刻についてたずねたところ、軽井沢にアトリエをもっている彫刻家の作品で、二科展で受賞したものだそうだ。喫茶店を開くにあたり、お祝いとして届けられたので飾っているーー
何でもない口ぶりなのは、何でもないと思っているからだろう。とするとあやしげな体位を連想した男がイヤシイ心情の持主なのか。店を出て、あらためてながめたところ、もつれあった肢体のつながりぐあいがよくわからない。あまりしげしげと見つめるのもサモシイ魂胆がありげなので、納得がいかないままに歩き出した。曲がり角で振り返ると、両足を蹴上げた小町娘のお尻が目にとびこんできて、どうしても何でもないとは思えないのだった。
【今回のアクセス 中軽井沢駅下車、国道を渡り、一つ目の通りを右折してすぐ。「キーコーヒー」の看板が目じるし】