“6月1日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1884=明治17年 本邦初の「天気予報」が東京気象台から発表された。
現在の気象庁の前身で東京・赤坂葵町にあった東京気象台は、前年の83年2月から天気図を作りはじめた。暴風警報なども出してはいたが、まだ測候所が少ないため等圧線が数本しか書けない天気図で1日1回の作成とはいえ試行錯誤の連続だった。外国ではすでに普及していた天気予報の要望が大きかったこともあって毎日の発表に踏み切った。
天気図の作製と指導にあたったのは<お雇い外国人>でドイツ人技師のエリヴィン・クニッピング。オランダ国境に近いクレフェに生まれ、アムステルダムの商船学校を出て汽船クーリエ号の一等航海士として東京に入港していたところを同じドイツ人化学者のワグナーに誘われた。ワグナーは旧・佐賀藩主の招きで来日、焼きものの釉薬技術の改善で有田焼の発展に寄与したことでも知られる。クニッピングは航海での必要性から天気図などには詳しかっただろうが一等航海士は当時の花形職業だったはずだ。同邦人の誘いとはいえ、よほどの好条件を提示されたのか、すんなりと転職が決まったようだ。
気象台の上司からは常々「予報も出すように」といわれたクニッピングは、相当悩んでいたようで長いこと腕組みして考え込んでいたというエピソードが残る。天気図のほうはかなり自信をもって作製した「7色刷り」だった。一方、初めて出した<天気予報>の全文は「全国一般風ノ向キハ定リナシ天気ハ変リ易シ但シ雨天勝チ」。
率直に言わせてもらえばかなりアバウトで、なんだか<付け足し>みたい。だって「風ノ向キハ定リナシ」だから風向は<外れる心配はない>し、「天気ハ変リ易シ但シ雨天勝チ」だからこちらも。まあ、降水確率は高そう、くらいはわかるけれど。8月23日からは新橋と横浜停車場に掲示され、『国民新聞』を手始めに各紙にも取り上げられるようになった。
クニッピングの名誉のために紹介しておくと91年に帰国するまで日本における西洋式の「中央気象台」創設の基礎作りをし、全国の観測所の位置を決めるなどわが国の気象観測の基礎作りに貢献した。彼の最初の天気予報発表にちなみ6月1日が「気象記念日」に制定されたのは1884=明治17年。
*1949=昭和24年 東京都内のビヤホールが5年ぶりに営業を再開した。
5月から酒類が自由販売になり、麦酒税が創設以来はじめて減免された。これを受けて満を持してビヤホール21カ所が一斉に再開した。ビール党諸氏も敗戦から受けた重圧からちょっぴり解放された気分になったようでどこのホールも連日満杯になった。営業時間は正午から午後9時。ジョッキ1杯100-300円だったが物資不足のため銀座でさえテーブルは部屋の片隅に数卓ならぶ程度で<立ち飲みスタイル>だった。
ビヤホール再開をのぞきに行って早速『漫画』8月号に描いた漫画家・杉浦幸雄の「ビヤホールにて」という一コマ漫画は当時の店内の雰囲気をよく伝えている。ウエートレス以外、客は全員男性。吹き出しには「吉田内閣の善政のために乾杯」「いや大日本税国のために乾杯」とあり、乾杯と言って掴んでいるのは握り手のあるジョッキではなく大型のガラスコップのように見える。ビヤホール、ビア・ホールなどの呼び方があったようだ。
作家・獅子文六は随筆『好食つれづれ草』の「ビールと女」に
「女性が客として、ビア・ホールに現れたのは、戦後の特色といえる。戦前のビア・ホールは、完全なる男性の世界だった。そして、昨今ビア・ホールに現れる女性が、接客業者に非ずして、お嬢さんもしくはお嬢さん的外形に包まれるところに、著しい特色を感じさせる。良家の子女が、ビールを愛好し始めたのみならず、男性の世界に割込みを画したというところに、この現象の興味がある。」
と書いているが、これはだいぶあとの昭和30年代になってからか。
*1973=昭和48 関門海峡に3頭の親子クジラが現れて大騒ぎになった。
午前10時45分ごろ、関門海峡大橋近くの郊外レストランで休憩していた客が西の方角の海面に灰黒色の大きな物体が動いているのを見つけた。やがて橋の真下あたりに接近してきてはじめて子連れのクジラであることがわかった。親のほうの大きさは13-15mもあり、真ん中の子クジラをはさむように悠々と東の瀬戸内海方向に消えた。この間、わずか30分ほど。たまたま居合わせた山口新聞の記者が写真に撮ることに成功した。
門司海上保安部は「知る限りでは関門海峡をクジラが通ったという記録はなく、普通、こんなに船舶の航行が激しい海に迷い込むことはないのだが」とコメントしている。この珍事に不審顔というのを引き出したものの、確認と船舶への衝突事故防止のため念のため出動した巡視艇も結局、クジラ親子の発見はできなかった。せっかくの特ダネ写真も<黒い物体が水面に浮かんでいる>程度だったので残念ながらクジラの種別まではわからなかったという。