“6月26日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*930=延長8年 宮中の清涼殿に落雷、大納言民部卿の藤原清貫をはじめ多数の死者が出た。
折からの旱魃が深刻になったため天皇が太政官を集めて「雨乞い」を実施するかどうかを議していた。連日、真夏のような天気続きで宮中の池どころか鴨川などの河川も干上がり、往来からは人影も絶えた。公卿らを運んできた牛車の牛も日陰に倒れ込んでぐったりだ。それが午後1時過ぎになると西の方角の愛宕山に大きな黒雲がわき出した。やがて都の空全体を覆うと猛烈な雨が降り注いだ。
2時30分ごろ、大きな稲光と大音響とともに清涼殿南西隅の柱に落雷した。すぐそばにいた清貫は胸に落雷を受け衣服が黒焦げになって即死、右中弁内蔵頭の平希世も顔を焼かれて瀕死の重体となった。清貫は陽明門から、希世も別の門から密かに運び出されたが希世も間もなく死亡した。落雷は隣の紫辰殿にも走り、中にいた官吏3人と警備の近衛2人が死亡した。この惨状にショックを受けた醍醐天皇は体調を崩して3ヵ月後に崩御した。
これには<前段>がある。藤原時平らの陰謀で大宰府に左遷された菅原道真は903=延喜3年に九州で憤死する。間もなく権力を一身に集めていた時平が39歳の若さで急死。以来、旱魃、飢饉、異常気象や疫病をはじめとして都には天変地異が相次いだ。陰陽師に占わせると「道真の祟り」と出たため朝廷は急いで道真を右大臣に復し、正二位の位を追贈したが収まらない。何かが起こると「道真の怨霊」が取り沙汰され、この落雷も怨霊が雷神となったと信じられた。死んだ清貫は道真の<動向監視役>で、天皇は道真を重用していながら時平の言うことを真に受けて大宰府行きを命じた張本人だった。
天皇の精神構造からしても自身の居所にまで<怨霊>が迫ったということは相当なショックだったろうから死の原因は<PTSDが高じて>かも。いずれにしてもこの落雷事件は天皇や貴族たちを震え上がらせた。密かに死体やけが人を運び出したのはこれ以上の悪いうわさが巷に広がらないようにしたいという精いっぱいの“配慮”でもあった。
雷の原理も分からず立派な建物にも避雷針はない時代、落雷の恐怖から逃れる術はただ神仏にすがるのみ。道真を祭神とする北野天満宮の国宝『北野天神縁起絵巻』は鎌倉時代の作だが落雷とともに降りてきた<雷神>に気絶し、逃げまどう公卿や官吏らが克明に描かれている。表情の必死さがかえって滑稽でもあるが私だってその場にいれば彼らと同じように<腰を抜かす>かも。
*1968=昭和43年 小笠原諸島が日本に復帰し父島の空に星条旗に代わり日の丸が揚がった。
復帰当日のこの日午前7時から早くも1ドル360円の固定レートで通貨交換が始まり、正午からは中心地の父島と太平洋戦争の激戦地・硫黄島、台風観測の拠点の南鳥島、東京の日比谷公会堂で記念式典が行われた。マスコミのインタビューに答える子供たち「ワタシ、ニホンゴダメ、シンパイ!」。新住所は東京都小笠原村。英語の「Ogasawara Islands」や江戸時代の無人島に由来する「Bonin(ボニン) Islands」からようやく漢字表記になった。
終戦翌年の1946=昭和21年に帰島が許されたのは欧米系の180家族だけだったから無理もない。そして世界遺産への登録などの話題の陰に激戦地・硫黄島は未だ1万2千余の遺骨が眠ったまま日米の基地になっており<長い宿題>を残す。
*1876=明治9年 ドイツから来日した医学者ベルツが加賀屋敷に居を構えた。
東京医学校(現・東京大学医学部)の教師として来日したいわゆる「お雇い外国人」のひとりで本名はエルヴィン・フォン・ベルツ。ライプッィヒ大学などで内科を修め普仏戦争では軍医をつとめた。当時27歳の青年医師は着任早々からドイツ語で生理学などの講義を行った。1902=明治35年に東京大学を退官し宮内庁の侍医をつとめるがその間に愛知県豊川市の戸田屋の娘のハナコと結婚していることもあり日本通で日本びいきだった。
医師としての功績は「ベルツ水」として肌荒れに効果があるグリセリンカリ液の処方や赤ん坊の「蒙古斑」の命名があるがそれ以上におなじみなのは温泉研究だろう。
残した日記には伊香保温泉について
「伊香保の鉱泉は非常に薄く、少量の鉄分に、若干の食塩と硫酸ソーダを含んでいる。湯の温度は四十六度で、長時間の持続には適しない」
と少しぬるめにしての入浴を推奨している。
他にも熱海、箱根、草津など各地の温泉を訪ねているがなかでも箱根と草津はお気に入りだったようで1882=明治15年には箱根宮の下の木賀温泉に別荘「山荘ミハラシ」を建築。1890=明治29年には草津に約6,000坪の土地と温泉を購入しドイツ式のクアハウス計画を進めた。なかなか壮大なスケールではないか。
以前、草津温泉のベルツの胸像前で記念写真を撮ったのを思い出した。「いい湯でしたか」とヒゲのドクトルが話かけているようなやわらかな表情でした。