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“7月9日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1854=安政元年  幕府は外国船と区別するため日本船に「白地に日の丸」を付けるよう命じた。

日本船の惣(総)船印としてで「日の丸=日章旗」を国旗のように扱った最初となった。開国後「大船建造禁止令」が撤廃され、諸外国に洋式帆船や軍艦の建造を発注できるようになったため輸入された船にすぐわかるように<目印>が必要となった。老中・阿部正弘は幕政参与の元水戸藩主・徳川斉昭の賛成を取り付けて「薩摩藩が<丸に十字>の島津家の家紋と一緒に使っているので気にいらない」という反対意見を抑え込んだ。

しかし皮肉なものですなあ。戊辰戦争(1868―69)では幕府軍が掲げた「日の丸」が天皇の「錦の御旗」の新政府軍に狙い撃ちされ、踏みにじられたり燃やされたり。ところが明治新政府はそれを忘れたかのように翌年1870=明治3年、太政官布告として寸法も決めて改めて公布したことで名実ともに国旗になった。別名・商船旗ともいうが幕府が「日の丸」を惣船印に定めたときに「国旗のように」と書いたのはそのためだ。

*1906=明治39年  東京高師の「交友会誌第11号」が中村覚之助の訃報を報じた。

1878=明治11年に和歌山県那智町(現那智勝浦町)に生まれた中村は東京高師に進学した。ここで米国サッカー事情を導入したサッカー部の前身となる「ア式蹴球部」を創設した。
「故・中村覚之助を想ふ」
7月9日我が蹴球部創設者中村覚之助君の訃音に接せり。君は37年3月本科博物科を卒業し清国山東省済南師範学校に教鞭を執られしが病を得、夏期休暇を利用して故国に帰り療養せんとし6月28日に神戸に着きたりしが、7月3日病俄かにあらたまり、同夜、突然不帰の客となられたり。吾が部は君の過去に於ける功労を思ひて実に悼惜に堪えざるなり。吾が部の名において出版せられし「アッソシェーション、フットボール」は実に君が自ら筆を執られしものなり。当時我が国に於いてフットボールの知識を有するものなく、依るべき書も稀なりしを、奮然此の挙に出られし熱心思うべし。

きっかけはアメリカ視察から戻った恩師の坪井玄道教授からサッカー解説の一冊の原書を託された。当時、サッカーはラグビーフットボールと未分化の状態で、フートボールとも呼ばれていた。原書を1902=明治35年に翻訳すると蹴球部の部員募集に奔走し計9名の新部員獲得に成功した。「それでは11人でやるサッカーはできないのでは」とおっしゃる通り、彼らは文京区大塚に建設が進んでいた新校地の寄宿舎に寝泊まりし運動場の雑木・雑草刈りや整地に汗を流した。フィールドには石灰線の代用にシュロ縄を張り巡らせゴールを建てた。作業の合間に中村から競技ルールを学んで実地練習を始め翌年、新部員の加入で部員が20数名となってようやく蹴球部ができた。訳書は東京・鐘美堂から東京高等師範学校蹴球部の名前で出版された。

中村らの戦績はわからないが卒業翌年の明治38年秋、蹴球部は横浜在住の米選手を迎えて親善試合を行い2-2で引き分けた。これが新聞に報道されると全国の旧制中学から当時校長だった嘉納治五郎あてに指導依頼が殺到、部員は群馬師範などに出かけて実際に実技をみせた。なかでも引き分け試合を一番喜んだのは中国にいた中村で、蹴球部あてに「多大の寄付」を寄せたというから試合相手がいなかったか、あっても勝ちはなかったか。

中村は29歳で早逝したがこの一冊の原書の翻訳から始まるサッカーへの貢献により日本サッカーの生みの親とされる。もうひとつ、中村の事績で忘れてはならないのが現在、Jリーグのシンボルマークになっている3本足の八咫烏(やたがらす)とのつながりだ。中村の生家が熊野三所権現のひとつ渚の宮神社の有力氏子で、母校蹴球部のシンボルとして「神の使いの鳥」の着想を持ち込んだとされる。日本サッカー協会の前身の大日本蹴球協会が東京高師関係者を中心として設立されたことを考えると可能性は大いにあるが八咫烏の件は状況証拠しかないのが残念ではある。

*1922=大正11年  明治の文豪、森鷗外が東京・千駄木の自宅「観潮楼」で逝く。60歳だった。

「観潮楼」は団子坂の途中にあり、書斎からはるか浜離宮の木立の上方に東京湾が望めたところから名付けた。跡地は森鷗外記念本郷図書館になっているがここで『青年』『雁』『高瀬舟』など数々の名作を書いた。死の3日前に口述した遺書で「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス。宮内省陸軍皆縁故アレドモ生死別ルル瞬間アラユル外形的取扱ヒヲ辞ス。森林太郎トシテ死セントス。墓ハ森林太郎墓ノ外一字モホル可ラス」と残した。

病状を心配した大正天皇・皇后からは翌7日に見舞いの葡萄酒が下賜され、8日には摂政宮(昭和天皇)からお見舞い品と従二位に叙すという伝達もあったが本人は昏睡状態だった。臨終の際に袴をはいていたのは叙爵の使者を待っていたからという説もあるが、軍医時代には近所の散歩でさえ軍服に着替えて出かけたくらいだったから存外、弔問の人目を気にしたのかもしれない。「饅頭を茶漬けにして食べた」というくらい甘党の鷗外に葡萄酒とは、と思うがそこは下賜品だから。ともあれ墓石は遺言どおりにつくられ、文字も自宅や別荘の表札まで頼んでいた洋画家で書家の中村不折が揮毫した。これも遺言どおりだった。

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