“7月22日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*672年 古代史上最大の戦乱である壬申(じんしん)の乱はこの日、最終局面を迎えた。
天智天皇の死後、弟の大海人皇子と天皇の子の大友皇子との間で争われた戦いである。1か月前に吉野を出た大海人皇子は美濃や尾張、伊勢などからの援軍を得て「大海人軍」を結成すると各地で戦闘を続けながらいよいよ決戦の地、近江朝廷の本拠地・大津宮に迫った。本隊は近江平野を東から、別動隊は琵琶湖の西岸を北から、南の飛鳥からも河内、奈良、山崎へと攻め上った。迎え討つ大友皇子率いる「近江朝廷軍」は<出口>をふさがれて「大海人軍」本隊と琵琶湖の南、瀬田川を挟んで向かい合った。
現在の位置関係で言うと京都駅を出た東京行の上り新幹線がトンネルをふたつ抜けてすぐに渡るのが瀬田川だ。昼間なら進行方向左手に一瞬だが橋脚を木肌色に塗り替えた「瀬田の唐橋」が見える。当時の唐橋は今の橋の80メートル下流(新幹線寄り)にあり、1988=昭和63年の発掘調査で橋脚計8カ所があったことが確認された。丸太を並べた上に橋脚材を六角形に組み、山石で押さえるという念を入れた構造で川幅もコンクリート堤防がなかった分、いまの約200メートルより広かったようだ。
『壬申紀』には「大友皇子と群臣は橋の西に大きく陣を構え、その後方はどこまであるのか見えないほどであった」と伝える。ここから大津宮までは10キロ足らずだから橋の東に陣取った「大海人軍」からは宮殿の甍が西の方角に見えていたはずだ。直前の戦から5日をかけたのは畿内や北近江の動きに合わせた<総力戦>を狙ったからだろう。「瀬田川の戦い」では朝廷軍の最前線の指揮を執った将の智尊が、橋の中ほどの板を3丈ほど(=約9m)を切って、代わりに長い板を敷いてその上を渡ろうとする兵を、板を引いて川に落すという<奇策>を考えた。だが、大海人軍の先鋒がこの上を一気に飛び越して敵陣に斬り込んだので朝廷軍は大混乱になった。逃げ出そうとする兵を刀で斬りつけた智尊も橋の西詰で命を落とした。史実というより<できすぎた話>ではあるが大海人軍の一気の攻勢に朝廷軍はなすすべもなく大友皇子や左右大臣ら重臣も散り散りに逃げ翌日に大友皇子が自刃してようやく戦が終わった。
*1549=天文18年 イエズス会会員の司祭フランシスコ・ザビエルが鹿児島に入港した。
インド各地の布教を終えてマラッカに戻ったザビエルはこの港で薩摩出身のアンジローと出会う。彼の聡明な性質を気に入ったザビエルは日本での布教の可能性を信じ、彼には「ポーロ」弟には「ジョン」下僕には「アントニオ」という洗礼名を与えて基礎的な学問を授けると彼らを連れてジャンク船で鹿児島にやってきた。アンジローの通訳もあって領主の島津貴久は丁寧に応対して布教を許した。たちまち百人もの信徒が誕生したことをザビエルは「われわれが接触した人々から判断すると、日本人は現在までに発見された人民のなかでいちばん善いものである」と喜んだ。
もっとも領主側の狙いの一つはポルトガル貿易による莫大な利益を得たいという側面もあったがまずは支配層に食い込んだことで布教のターゲットが定まり、薩摩は日本への確実な足跡となった。「教えをその国の言葉で伝える」ためにアンジローら通訳の役目は大きくやがて肥前(長崎)平戸、周防・山口へと布教の道を広げていく。
*1790=寛政2年 異教徒としてのキリシタンを検挙した「浦上一番崩れ」が起きた。
浦上では幕末までに4回の「崩れ」が発生し他にも「五島崩れ」などキリシタン密告事件が多く起きてさまざまな受難の歴史が続いた。これとは別に「日本26聖人殉教」(1597=慶長元年)「元和の二大殉教」(1619・1622=元和5・8年)など多くの殉教事件が起きた。ザビエル来日と同じ日に起きた宗教弾圧を列記したのは「もし、ザビエルが来航しなかったら」ということではなく、あくまで暦の上での偶然の出来事だから誤解なきよう。
*1996=平成8年 午前11時45分、東京・夢の島マリーナを14歳の高橋素晴のヨットが出港した。
「アドバンテージ=Advantage」といいアメリカ・サンフランシスコへ向けて単独太平洋横断をめざした。とはいっても16歳未満のため小型船舶免許がないので千葉・富津沖までモーターボートに曳航されての出発だった。
出港早々から多くのトラブルだけでなく<無謀な挑戦><親のエゴ><記録狙い>などマスコミのバッシングもあるなかで8月16日には無線交信が途絶えてしまう。嵐に巻き込まれて遭難したのでは、いやきっと大丈夫だ・・・両親や家族、支援メンバーにも焦りの色が広がった。原因は発電機を回すエンジンの故障だったがそれが判明するのは9月13日にサンフランシスコに無事到着してから。
「かわいい子には旅をさせよ」以上の収穫があったことは間違いないが、本当にいろいろありましたというのが御両親の感想だった。素晴少年自身にもこの55日間は人生の得難い経験になったはず。一家はわが友人だからあえてここで紹介しておきたい。