“7月25日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
“7月25日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1942=昭和17年 フランス・リヨン郊外の裏山で瀧澤敬一は1枚のチラシを拾った。
滝沢がどんな人物かをかいつまんで紹介しておくと1884=明治17年、東京生まれ。旧制一高から東京帝大法学部に進んだ。中学ではフェノロサに哲学を、高校では夏目漱石に英語を学んだ。1908=明治41年に大学を卒業すると横浜正金銀行に入り永井荷風もいたリヨン支店に勤務した。
在職中から書き続けた『フランス通信』が人気を呼び20年間勤めた銀行を退職すると執筆に専念し大正・昭和期に随筆家として活躍した。フランス人のギヨー夫人と結婚して2児があったこともありリヨンに永住し、異国人ならではの自由な立場で世相を観察することで政治、社会、文化、芸術、料理までやわらかい発想と気のきいた文体で「そのままのフランス」を書き残した。異母弟には俳優の滝沢修がいる。
この日の『フランス通信』
チラシの大きさは3寸(9㎝)に5寸(15㎝)位。昨今のフランスには見られぬ上等な光沢紙で、印刷も細字で甚だ明瞭、写真入色刷4頁、<空中便り>と題し、1942年第26号「仏国愛国者により播布」などとある。すなわちロンドンに住むフランスの謀叛組ド・ゴーリスト一味が本国人に呼びかける宣伝の小新聞なのだ。毎日BBCがフランス語で放送して居る様なこと、つまりフランスを枢軸側から引き放して英米につかせんとする努力の一つの現れである。
フランスでド・ゴーリスト放送をきくことは禁ぜられ、最近にも、これで獄につながれた者があった。この小新聞も拾ったり読んだりしてはいけぬものであろうが、非常な高空から沢山播いて行くのだから、どうにも仕方がない。写真には、欧州米軍司令官アイゼンハワーの肖像、海中に堕ちるイタリア飛行機の最後などと一つ所に「日本人も最早勝手な真似は出来ぬ」と題し、最上型巡洋艦がミッドウェ―島沖で火災を起こして沈没しかけた光景がある。ひどくやられて居て、どこの国の船とも見当はつかぬ。
こんな新聞は、工業地帯などに落ちて来て、とかく噂に上る。戦争にあきた人間は、希望と実際とをごったにして悲喜するから、場合によっては、紙の雨は爆弾より有効危険で、始末が悪い。フランスの飾章は青丸を中心にして白赤層でとりまいた三色のものだが、愛国者空中新聞には英国のを用い、中心が赤白青の順序で逆である。別にフランスの逆臣と云う謎でもあるまいが。
当時、リヨンに住み続けていた日本人は滝沢だけだった。絹織物の産地として有名なリヨンは第一次世界大戦では繊維産業が政府の手厚い保護を受けていたため「リヨンは自由に対し戦いを挑んだ。リヨンはもはや存在せず」とまでいわれた。ところが第二次世界大戦では一転、レジスタンスの中心となっていた。
60歳に差しかかっていた滝沢はレジスタンスとは一線を画していたから彼なりの目で大戦の進展を観察することができた。しかしミッドウェ―での帝国海軍の敗北を伝える写真には「どこの国の船とも見当はつかぬ」と書いていて<信じたくない>という心情をのぞかせている。
*1183=寿永2年 「平氏の都落ち」が行われ都はあちこちから上がる黒煙に厚く覆われた。
亡き清盛の三男で内大臣の平宗盛は六波羅と西八条の邸宅に火を放ち安徳天皇と「三種の神器」その母で妹の建礼門院徳子を擁して西海に走った。木曽山中で挙兵した木曽義仲が比叡山延暦寺に陣を敷き、すぐそこまで迫っていたからこの模様は手に取るように見えた。
平家一門の総大将でもあった宗盛は5月に富山・石川県境の倶利伽羅峠での大敗した平氏軍がすっかり戦意を失い、義仲軍に抗戦できそうもなかったので、後白河法皇と安徳天皇を擁して逃げる算段をしていた。ところがこれを察した上皇は7月24日に義仲を頼って延暦寺に身を隠してしまう。のちに源頼朝が法皇を<日本一の大天狗>と評している。権謀術数に長けていたというかその上をいったから。平氏の都落ち直後には「西海に走った賊徒を追討せよ」と命じた。前日まで官軍だった平氏を一夜にして賊軍に変えた法皇だが、ではずるい人物かというと武力を持たない朝廷の自己防衛ともいえるからそれは違うだろう。
平家一門のなかで唯一、都に“思い残したこと”を果たしに戻った武将がいる。清盛の弟で薩摩守の平忠度(ただのり)、わずかの郎党と淀川河口あたりから引き返した。訪ねたのは法皇から勅撰の『千載和歌集』の選者を任されていた藤原俊成邸だった。忠度は和歌一巻を託すと馬をめぐらせて一族のあとを追った。そのなかの一首
古郷の焼野の原にかへりみて 末もけむりの波路をぞ行く
落人の悲哀とその行く末がにじみでているが、まもなく「一の谷の戦い」で討たれた。その際に鎧の「えびら」に結び付けてあった一首から本人と分かった。
行き暮れて木(こ)の下陰を宿とせば 花や今宵の主ならまし