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“7月27日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1938=昭和13年  大阪のトップを切って松島遊郭で「盛り塩廃止」が実行された。

当時は旅館、料亭、呑み屋、寄席、縁日小屋まで客商売の場所には入口に盛り塩が置かれていた。
樋口一葉の『にごりえ』には
「店は二間間口のニ階作り、軒には御神灯をさげて盛り塩景気よく・・・」

山崎豊子の『花のれん』にも
「暑い陽照りですぐ乾いてしまう表口へ、何度も水をして盛り塩を置いた」

上方落語の『東の旅・軽業』にも軽業小屋の様子を
「えー、左右に木戸が取ってございまして。一段高い札場には札を山のように積み上げまして、隅々は盛り塩で縁起を祝うてある」

という具合だったのが、非常時の消費節約、資源保護のためとして貸座敷業の254楼がこれまでの<清め縁起>のために行ってきた盛り塩の全廃を決議した。これに九条管内の約600軒の飲食業者も右にならえとなったので同署管内だけで一日に約4斗の塩、3円60銭の節約となったが他でもこれを見習って盛り塩が姿を消していった。

*1834年  チャールズ・ダーウィンは寄港したチリのバルパライソを航海記に書いた。

バルパライソでは見渡すとあらゆるものが愉快に見えた。フェゴ島を経た後では風光はまったく甘美なものに感じられた。大気は乾き、大空は澄みわたって青く、太陽は輝き、自然はすべて生命にあふれているようだった。港からの眺めは非常に美しい。1,600フィート=490mほどの高さのやや険しい連丘のすぐ麓にある市街は起伏のある長い街路となって海岸に平行に連なり、山からの狭い谷と出会ったところでは家屋は谷の両側に重なり合っていた。

ほんの1カ月半前にいた南米南端のフェゴ島は海の難所のマゼラン海峡のさらに南にある。「強風が吹き荒れ、荒涼とした大地の外側には無数の岩が散在し、その上に外洋の大きなうねりが絶え間なく荒れている。これを一瞥しただけで陸の人間には1週間も難船、危険、死などを夢に見させる。こうした光景を後にしてわれわれはフェゴ島に永久の別れを告げた」と書いたのに比べるとその変りようが面白い。よほどうれしかったのだろう。

特色のあるあざやかな赤土が露出した丘には貧弱な植物があるだけで煉瓦屋根の白壁の低い家の眺めはカナリヤ諸島のテネリフェにあるサンタ・クルスを思い出させた。東北にはアンデス山脈のみごとな展望がある。この山脈は市街地より近くの丘から眺めた方がはるかに壮大に見えた。そこまでの距離がはるかにあるのが分かりやすいし、アコンカグアの火山はとくに壮大だ。この巨大な不規則な円錐体はエクアドルのチンボラゾより高度がある。ビーグル号の将校が測量したところによれば高さは23,000フィート=7,000mよりは低くないからである。ここから眺めるコルディエラ山脈の美しさの大半は透き通った大気のせいである。太陽が太平洋に沈むときの眺めはとくにすばらしい。凹凸の険しい輪郭がはっきり見え、その色と影がなんと変化に富みなんとこまやかであるか。

自然科学・生物学者のダーウィンもこれを読むとナイーブな詩心を持った紀行作家みたいで、こちらにも幸せな感じが伝わってくる。「ビーグル号」での調査行だから先を急ぐ旅ではなかったのだろうがこういうところだけはうらやましい。

補足しておくと書かれているようにアコンカグアまでは水平距離が<はるかにあった>から無理もないが標高は6,960m、エクアドルの最高峰チンボラゾの標高は6,310mだ。

*1878=明治11年  長崎の海底炭鉱・高島鉱で賃金切り下げに反対した坑夫が暴動を起こした。

長崎半島の西に浮かぶ高島にあった。暴動を起こしたのは2千人が暴動で、うち100人もが逮捕された。高島鉱は幕末に佐賀藩とトーマス・グラバーが共同出資で採掘をはじめたが1874=明治7年に官有になり後藤象二郎に払い下げられた。しかし採算ベースに乗らず経営に行き詰まり、3年後の1881=明治14年に政商・岩崎弥太郎の手に渡り三菱財閥のドル箱炭鉱になった。

反面、その労働条件は劣悪を極めたがなかでも「納屋制度」というタコ部屋でのリンチはすさまじく、三宅雪嶺は家畜以下の扱いであるとして雑誌『日本人』で坑夫虐待問題へのキャンペーンを張ることで社会問題になり政府の重い腰をあげさせた。明治期に起きた争議だけでも実に計17回に及び、5年後の1883=明治16年には7人の死者まで出した。

暴動が起こるたびに工夫や炭鉱側には多くの血が流されたが坑内や機械類はいっさい壊されることはなかった。「神霊のたたりを怖れたから」ともいわれるが、命そのものが軽んじられてはいても最下層の労働者にとって炭鉱は生きるための職場であり、あくまで<神聖な場所>だったからであろう。

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