“7月30日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1912=明治45年 明治天皇崩御で朝日新聞が「新年号は大正」をスクープした。
読売新聞は「天皇陛下今三十日午前0時四十三分崩御あらせらる。昨廿九日午後八時頃より御病状漸時増悪し、同十時頃に至り、御脈次第に微弱に陥らせられ、御呼吸は益々浅薄となり御昏睡の御状態は依然御持続遊ばされ、遂に今卅日午前零時四十三分崩御遊ばさる」と報じた。各社も同じような内容だったが朝日新聞だけは同じように崩御を伝え「哀辞」を掲載したが、もうひとつ「大正と改元」の見出しと「年号は枢密顧問に諮詢の上大正と決定したり」という大スクープを載せた。
近代天皇制では日本は一世一元の皇室中心の国家だから天皇崩御でただちに皇太子が即位し当然の順序として新しい年号が制定される。それは「崩御されたその日」に決められる。ちょうど昭和天皇崩御の翌日、当時の小渕首相が「新しい年号は平成です」と発表したのと同じである。
新聞は黎明期から大手競合時代になり特ダネを巡って激しく競争するために競って大学卒業生を大量に入社させはじめていた。まさか崩御を早手回しに出すわけにはいかないから各社の狙いは「新年号」に絞られた。明治天皇が危篤になった頃から、各社は全力を挙げてスクープ合戦を水面下で繰り広げた。平常時でさえ宮中といえば取材困難な場所でこの重大事態の段階に至っては外部とは“隔離状態”にあった。
朝日新聞の無名の青年記者だった緒方竹虎は枢密顧問官の三浦悟楼宅に以前から出入りして温厚で勤勉な態度が三浦の信用を得ていたし人懐こさで家族にもかわいがられていた。ほかの記者が玄関から案内を乞い、名刺を差し出して応接間に通されて長いこと待たされていたのとは違い緒方は玄関からだけでなく勝手口から上がってもとがめられることはなかった。しかも危篤状態以降は当然ながら取材は謝絶となっていた。緒方はこの晩も茶の間で家人と雑談を続けていた。家人も<眠気覚ましに>ちょうど良かったというわけだ。
天皇崩御後しばらくして三浦が帰宅する。
「閣下、ご苦労さまでした」
「おう、緒方君か。この夜更けまで貴公も商売とはいえご苦労なこっちゃ」
「いえ、ここ数日来の閣下のご心痛などからみれば、わたしなどものの数には」
そこですぐに「新しい年号は」と切り出したいのをぐっと抑えて最期のご様子などをさり気なく問いかけ、頭を垂れて神妙に三浦の語る宮中でのできごとを聞いた。
長い話が終わったところで緒方はついでのように
「新年号もおきめになったのでしょう」と尋ねた。
「大正と決まった」
釣り込まれて三浦はこう答えたが、さすがにハッとして
「明朝、正式に発表になる」と付け加えた。
ここでうっかり腰でも浮かせば、口止めされるに違いないと感じた緒方は、はやる心をじっとこらえて
「やはり大正でしたか、結構な年号ですね。それについて宮中でもいろんなお話が出たと思いますが」と続けた。
こうした緒方の落ち着いた<誘導尋問>によって、三浦は宮中での決定に至るまでの議論や、大正の年号の出典なども詳細に話して聞かせた。それは新聞記者にというより家人に話して聞かせるようだった。
緒方は心の中で「落ちつけ、緒方よ、落ちつけ」と何度も繰り返した。もちろん締め切りは真っ先に頭にあったが、あせれば「記事にする気だな」と疑われる。そして三浦が「これは発表まで記事にしてはいけないよ」とクギを刺したら緒方としては<男の約束>として一切口にしないことにしただろうが、三浦が「ではまた明日ということだ」と送り出してくれたので世紀のスクープとなった。
緒方は後年、「まるで小便を無理にこらえているような気分だったよ」と述懐している。このときのまさに<一世一代の大芝居>や2.26事件での朝日新聞社襲撃事件での編集局長としての落ち着いた対応からやがて主筆に。戦後は政治家にまでなっていく。
*1965=昭和40年 耽美派の文豪・谷崎潤一郎が神奈川県湯河原の「湘碧山房」で死去、79歳。
こう書くといまや「耽美派ってなんですか」と言われそうだが明治末期に森鷗外や上田敏らによって紹介された文学・芸術の一派で文学では谷崎や永井荷風、北原白秋、佐藤春夫らが代表と答えておく。
関東大震災後に関西に移住し、『痴人の愛』『卍』『陰翳礼讃』『細雪』などを残した。
「あんた、こんな奇麗な体やのんに、なんで今迄隠してたん?」
「うち、あんまり奇麗なもん見たりしたら感激して涙が出て来るねん」―『卍』
<妖しい心を呼びさますアブナイ愛の魔術師>と新潮文庫の『文豪ナビ』に。