“8月1日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1590=天正18年 徳川家康が江戸へ入城した。これを「関東御打入り」ともいう。
家康はまだ征夷大将軍ではなく、当時は小田原の北条氏を滅亡に追い込んだ豊臣秀吉の絶頂期で家康の時代がやってくるなどとは誰も思っていなかった。江戸入りには新たに領民になる人々に不安感を与えないように家康以下重臣すべてが白帷子だった。太田道灌が築城した江戸城は貧弱だったが一日も早い修理をという家臣の意見は一蹴されて生産基盤の強化に力が注がれた。
家康は民政優先と人心掌握につとめ用水路の整備を進めたことで関八州の生産力が飛躍的に向上した。江戸での最初となる八月朔日の「八朔」は徳川幕府にとって大切な<祝日>となった。
*1931=昭和6年 日本映画初の本格的トーキー映画『マダムと女房』が封切られた。
五所平之助監督、松竹蒲田の喜劇。郊外の静かな住宅地・田園調布に引っ越してきた劇作家の芝野新作=渡辺篤は東京劇場の芝居を書く劇作家だが隣のマダム山川滝子=伊達里子がかけるジャズのレコードの音がうるさく原稿書きがはかどらない。滝子は「マーキュリー・ジャズバンド」の歌手で、芝野は頭から風呂敷をかぶったりしてさんざん苦しむ。意を決して怒鳴り込むものの<モダンマダム>の美しさにすっかり参ってしまい一緒になって騒ぎ始める。それに女房役=田中絹代が嫉妬しながらもちゃっかりドレスをねだるというストーリーだった。
松竹の土橋武夫・靖夫兄弟の開発したいわゆる「土橋式トーキー」という方式により全編同時録音で撮影された。カットの<繋ぎ目>で音が途切れないように3台のカメラを同時に回し、生演奏のジャズ、ラジオの音声、猫の鳴き声、目覚まし時計の鳴る音などが次から次へと聞こえるまことににぎやかな作品である。もとの題名は『隣の雑音』だったがそれでは<まんますぎる>として『マダムと女房』になった。
当時は防音技術がなかったのでセットは畳敷きで天井には厚い綿布を張り付け、撮影は静かになる夜間に行われたが早朝の豆腐屋の笛の音が邪魔になると毎日、豆腐を買い上げた。初めのうちはスタッフで食べたがさすがに飽きてしまい手分けして家に持ち帰ったというエピソードが残る。
紹介した俳優3人では渡辺が戦前の喜劇俳優から戦後は黒澤明監督に重用され『七人の侍』『どん底』『用心棒』『どですかでん』などで重要な役どころを演じた。
伊達は<曲線女優>として売り出され、松竹を代表するモダンガール女優として活躍、日活太秦から前進座で舞台を踏んだ。戦後は新東宝の『チャッカリ夫人とウッカリ夫人』(1952=昭和27年)を最後に映画界を引退。
田中絹代は黎明期から日本映画を支えた大女優。戦後は女優だけでなく女性監督としても活躍した。鎌倉山の「絹代御殿」は解体され、現在はみのもんた邸になっている。
*1924=大正13年 兵庫県西宮市の武庫川の旧河床に東洋一を誇る甲子園野球場が竣工した。
敷地面積3万9千6百平方メートル、観客収容人員5万人、建設費250万円で13日から第10回全国中等学校野球大会が開かれた。それまでの開催は1、2回が豊中球場、3回からは鳴尾球場で開催された。甲子園の名称はこの年が甲子(きのえね)にあたるところから付けられた。
*1967=昭和42年 北アルプス西穂高岳で長野県立松本深志高生が落雷事故に巻き込まれた。
生徒らは集団登山訓練中で尾根道を下山中に二年生の列に落雷があり生徒11人が死亡、生徒、教諭ら13人が重軽傷を負った。落雷の発生は午後1時30分ごろ、筆者はアルバイトをしていた現場から東に1.8キロの岳沢ヒュッテで遅い昼食を食べていた。突然の大雨のなかでものすごい音がして山小屋全体が揺れたのを思い出す。それまで体験したことのなかった音で、やがてラジオの臨時ニュースで遭難事故を知った。なかでも生徒3人が<こちら側=上高地側>にはね飛ばされて行方不明になったので山小屋のオヤジからは「出動要請があれば捜索に行かなくてはいかんな」と言っていたのを思い出す。
翌日早朝から捜索に当たる自衛隊のヘリや報道各社のヘリなどが飛び回るのがすぐ近くに見えた。上高地を2日おきに往復して生鮮食料品などを担ぎ上げる「ボッカ」がアルバイトとしての主な仕事のひとつだったので売店で地元の『信濃毎日新聞』を購入しては事件のその後を読んだ。山での落雷のこわさから始まって、落雷事故で何が生死を分けたか、学校葬や遺族の悲痛を伝える記事にこちらも涙したものだ。
当時は20歳、まだまだ<純情>だったわけです。