“8月4日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1944=昭和19年 空襲を避けて大都市の子供たちの疎開が始まった。
東京では第1陣として上板橋第三ほか板橋区の5校が群馬県妙義町へ。城南第二国民学校は都下西多摩郡へ疎開した。朝日新聞は「第一陣、温い地元の歓迎 無事、疎開しました」と妙義町での楽しそうな食事風景を写真入りで報じた。それに先立って朝から各校で「進発式」が行われた。学堂173名を送り出す上板橋第三国民学校の様子は
午前9時から校庭で進発式が行はれた。
「さあ式を始めますから父兄の方は生徒の列から離れてください」と先生が叫んでも、お母さん達はまだ愛児の靴の紐を結び直したり、スカートのしわをのばしたりしてなかなか離れようとしなかった。
父兄の見送りは江古田駅までである。引率の教頭が、ではこゝでお別れしませう。池袋駅まで行けば上野駅まで行きたくなる。上野駅まで送れば結局妙義までついて行きたくなります。ではこゝで・・・・・間もなく二両連結の電車が構内にすべりこむと、車窓とプラットホームに振り交はされる小さな手と母の手、やがて電車の姿が見えなくなると、お母さん達は申し合わせたやうに、振ってゐたハンカチで汗と涙に濡れた顔を拭いた。
只今着きました――4日午後4時45分、信越線松井田駅へ安着の帝都疎開児童の第一陣、上板橋第三国民学校ほか練馬、同第二、石神井東、同西、大泉第二の198名は駅前広場にキチンと整列した。金ピカ姿の署長さんも、町役場の助役さんも、青年団員も出迎えに出てゐる。まるで帰還勇士を迎へるやうな駅頭風景だ。
「毎日泳げるかい」
「野良仕事で水あびは昼休みと夕方だけだ」
「僕も連れて行って下さいよ」
白い顔の東京ッ子と黒い顔の地元の子供たちは僅か40分間の休憩時間にしっくりと融け合って行く。
「さあ行きませう」
三年生を先頭にいよいよ出発する。
「君、こんにゃくの木だよ」
「あれは麻だよ」
子供達はこの辺の名産から早くも実地勉強に入る。
駅前から上りの山道を徒歩で一時間半それは子供達にとっては最初の大きな試練だった。
六時半全員は行学一致の永遠の宿舎に着いた。そのころには教材の大きな荷物も十台の荷馬車が先着してゐた。
学校からの注文で大きなお握り二つにお魚の佃煮がおかず、これがはじめていたゞく疎開先の晩御飯だった。一度に二十五名も入れるお風呂も沸いてゐて、九時にはさっぱりした気分で全員疎開第一夜の床に就いた。
新聞は<安心を届ける>という責務もあっただろうが少なくとも妙義町のくだりは記者の“作文”である。こんにゃくは<木>ではないし、麻は目立たない。しかも「行学一致の永遠の宿舎」は意味不明。ほとんどの学童はこれからの不安に胸を締め付けられた筈だし地元の子供達とはそうそう簡単に融和など出来なかった。厳しい規則も慣れないものだっただろうし、何より先ほど別れたばかりの母親らを想って枕を濡らしたことは間違いない。
学童の集団疎開はこの年6月30日の閣議で決定されたもので、少国民を戦火から守るための苦肉の策だった。残ったのは病気の児童だけ。疎開児童たちは企業の寮や神社や寺に収容された。翌年3月からは希望があれば1、2年生も疎開させた。引率の教師や寮母がいるとはいっても見知らぬ土地での生活はつらく、これは敗戦後のことだが疎開が終わって帰ってみれば戦災で自宅や町そのものが焼けていたり家族が死んでいたり、出征した父親らを失った子供もいたのだから。
*1934年=昭和9年 東京市が大蔵省に申請していた「女中税」が認可された。
<贅沢税>の一種で女中や書生を使う金持ちの家庭からは税金をいただくという狙い。
「女中または書生を2人以上使うものは1人について年間5円、3人以上は同じく1人7円」に決まった。当時は不景気で失業者も多く、大学出の初任給は50円くらいだった。わき目もふらずによく働く女中さんといえども大した給金ではなかったろうが「2人以上なら税金が来るから、花さんと松さんとどちらかにしようかねえ」などということもあったろう。
前年には「し尿汲み取り」の有料化が始まり海洋投棄船「むさしの丸」(310t)が就航するなどあの手この手の徴税策が考えられました。買い取り額=汲み取り料金は1荷(2樽)25銭。ではそれまではタダだったのかというと近郷の農家がお金を払って汲み取りに来てくれていたから逆にわずかでもお金や野菜になっていたというわけ。それが一気に有料化されたので不満は多かったはず。
最終処理はどうしたかというと「むさしの丸」だけではなく一般ごみの投棄船も別にあったから東京市はまったくの<垂れ流し都市>だった。