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“8月9日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1871=明治4年  明治政府は「散髪制服脱刀勝手たるべきこと」と布告した。

洋風の散髪、元武士の裃(かみしも)と袴(はかま)さらには帯刀も自由でよろしいとされたが散発以外は縁がなかった一般庶民には「断髪令」が大問題だった。きっかけになったのが外交問題の解決のため欧米へ出かけた岩倉具視が、あちらでは外交問題より日本の風俗を野蛮であると問題にしていることを知り、帰国後、政府に「放置すれば国辱ものである」と報告したことによる。しかし官吏は別にして長年のチョンマゲを「はいそうですか」と断髪、つまり<ザンギリ頭>にはしかねた。

大阪府は改めて「散髪の道理」を布達で説いた。
「即ち、人の精神は頭に宿る。いわゆる“霊液”の集まる所、そんな大切なる場所を日光や寒風にさらすのは病気の元。これ名医の説くところである、よって剃頭結髪の旧来のチョンマゲは速やかに止め、散髪に切り替えよ」。
名医が<頭には霊液が集まる>と説くなどとても思えないが、隣の堺市が「五年の十月三十日をもって未だ散髪せぬ者は捕縛する」と厳しい布達を出したのに比べればまだやさしかった。

大坂で初めて散髪屋を営んだのは石川伊三郎が上本町九丁目に、土井某が富島町に店を構えたとされる。「断髪令」を聞いた現・南海電鉄創始者・松本重太郎は資金を工面すると直ちに長崎に飛びあるだけの帽子を買い占めた。「断髪になると帽子の需要がどっと増える」という予想で仕入れ地に狙ったのが大消費地東京を控えた横浜ではなく長崎だったという着眼点はさすがに<頭>が違う。

*1821=文政4年  江戸・西両国広小路にラクダの見世物が出て連日大入りとなった。

オランダ人がはるばるペルシャから牡牝2頭のヒトコブラクダを運んできた。二頭は非常に仲が良く、夫婦が連れ立って歩くことを江戸っ子は<らくだ>と呼んだほどで、「おう、いいねえ、ラクダかよ。おいらも早くカカアを貰いてえ」などと囃したか。ラクダを描いた錦絵は子供の疱瘡よけになるとか雷除けになるなどの<風説>が飛び交った。このラクダはその後も各地で巡業を重ねたが北国の寒さがこたえて死んでしまった。

「雷除け」で真っ先に思い浮かぶのは浅草観音の「四万六千日」で授与される御札、これを神棚に祀っておくと四万六千日は観音菩薩の御利益があるとされる。計算してみると126年間だ。いまも持っているが、もうひとつ「雷除け」の話を思い出したので紹介しておく。

霞ヶ浦の南部に東西7キロ、南北1.5キロほどの小島がある。人情豊かで黒髪の美人揃い。人呼んで<夢の浮島>という。島の中央に小貫床太夫という旧家があり、屋敷内には松の大木が3本あった。江戸時代にこの老松の一本に落雷した。驚いた家人があとで調べたところ根元に珍しい棒が落ちていた。長さ30cm、重さ2kg、直径2-3cmで色は黒褐色。たたくとコンコンと重い音がして材質は「埋れ木」という化石らしいが、言い伝えでは雷様が持っていた大事な棒=「雷棒」であるとして“家宝”になっている。

この「雷棒」があるので、というか<お預かりしている>ので以来、島には落雷はないそうだ。好奇心旺盛な私のこと、一度見学してみたいと思いながら果たせないでいる。

*1926=大正11年  詩人で作家の木下杢太郎が医学博士号を取得した。

もちろん博士号は本名の太田正雄で、だった。東京帝大医学部、同衛生学教室では森鷗外のアドバイスを受けて皮膚科でらい病の研究を志した。卒業後は満洲に渡り満鉄附属病院皮膚科部長、1921=大正10年からは米欧、とくにフランスのソルボンヌやリヨン大学に留学中の博士号取得となった。

杢太郎といえば帝大1年の時に新詩社主幹の与謝野寛(鉄幹)をリーダーに約1ヶ月にわたって東京を離れて厳島、下関、福岡、柳川、唐津、佐世保、平戸、長崎、天草、島原、熊本、阿蘇などを巡った『五足の靴』で知られる。他の3人は柳川出身の北原白秋、平野万里、吉井勇。その紀行文は『東京二六新聞』に5人のリレー執筆として計29回連載された。南蛮幻想、邪宗門秘話、切支丹文化を発掘するなどそれまでになかった内容で、わが国の近代文芸史を彩る画期的な作品とされた。

杢太郎は一時、美術学校への進学を夢見たこともあり、旅行中に80点もの風景画を描いて『明星』に発表している。『大江村横浜(天草)スケッチ』『肥前島原の眉山(雲仙岳)スケッチ』などはなかなかの出来である。後年、切支丹研究や南蛮情緒にあふれた詩や戯曲を残したがその原点は若き日に旅したこの天草や島原などにあったのではないだろうか。

医学でも<師>であった鷗外については「先生から聴かうと欲した所は万事をすてて文芸の事に従へといふ言葉であった。而して先生は一度もそれらしい言葉をば言はれなかった」と書き残しているが岩波書店の『鷗外全集』では主編集者をつとめるなど鷗外研究にも大きな足跡を残した。

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