“8月10日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1994年 大韓航空のエアバスA300が強風と雨の済州島チェジュ空港に着陸しようとしていた。
午前10時30分に乗客152名と乗員6名を乗せてソウル金浦空港を飛び立った国内便2033便で離陸から約50分後だ。操縦室のカナダ人機長バーリー・ウッズと韓国人副操縦士チャン・カン・クイは日頃から仲が悪かった。韓国国内の空港は細部まで知り尽くしていると自負するチャンに対し、ウッズは<上から目線>というか<タカビー>というか、何ごとにも横柄で高飛車だったわけだ。ウッズのほうは納得できないとなると同じ質問をしつこく繰り返すチャンの態度が気に入らなかった。
CVR=ボイス・レコーダー:
副操縦士「滑走路が見えて来ました、滑走路が見えて来ました」
機長「わかっている。ああ、わかっているよ」
副操縦士「はい、右側ですよね?右ですね?」
機長「ああ、そうだ。えー・・・400フィート(高度=122m)で進入角度は・・・最小の3度だ」
副操縦士「進入角度3度、進入角度3度」
機長「オーケー、オーケー」
副操縦士「100(フィート)。速度も?」
機長「ああ、50フィート(進入速度=秒速61m)」
この時点で副操縦士はこの速度では滑走路の距離が短すぎるから着陸した場合は機体が滑走路からはみ出してしまうと判断する。高度はわずか40フィート(12m)しかなかったが副操縦士はゴー・アランウンド(=着陸やり直し)を決意、スロットルを全開にして操縦桿を引いた。
副操縦士「ゴー・アランウンド、40(フィート)、30・・・」
機長「手を放せ・・・放せ! 放せ! 俺に高度を教えろ。20(フィート)・・・放せ!」
副操縦士「ゴー・アランウンドしますか?」
機長「しない。駄目だ。15(フィート)」
ここで機体は接地し、ブレーキと逆噴射がかかる。ここまでは問題ない。ところがゴー・アランウンドせずブレーキをかけるという機長に対し、副操縦士は依然、着陸中止とゴー・アランウンドの操作を続けた。
機長「逆噴射。ブレーキだ。どういうつもりだ?やめろ。いったいぜんたい・・・皆殺しにする気か?」
操縦室全体に大きな衝突音が響く。
機体は飛行場のフェンスを突き破って水田に乗り上げ、かろうじて停止した。炎が上がるなか乗客らは脱出用シューターで機外へ。機長と副操縦士は操縦室の窓からようやく脱出した。直後に機体は爆発炎上。乗客らは数人がけがをしただけで奇跡的に無事だった。
*1892=明治25年 19歳の樋口一葉が東京朝日新聞の記者・半井桃水に一通の手紙を書いた。
一葉は東京・内幸町の東京府職員宿舎の長屋に5人兄弟の次女として生まれた。本名は奈津=戸籍名だったがふだんは夏子(なつ子)を称した。小学校を首席で卒業すると上流家庭の子女にまじって短歌や古典を中島歌子の「萩の舎」に学んだ。しかし15歳で大蔵省に勤めていた兄、17歳で父を失った。次兄は分家していたので母と妹らと本郷菊坂の借家に移る。父親が決めた婚約者は樋口家の没落を知ると一方的に婚約を解消、一家は貧困にあえぐようになる。針仕事や洗い張りなどの仕事は性に合わない一葉は小説家を志す。「萩の舎」に内弟子として住み込み20歳で随筆『かれ尾花一もと』を発表している。
一方の桃水は対馬厳原藩の藩医の長男として生まれた。父親の仕事の関係から釜山で少年期を過ごしその後上京して小説専門の記者になった。二人の出会いは「萩の舎」を通じてだったが桃水は困窮生活を送る一葉を助けながら自身が主宰する雑誌『武蔵野』創刊号に初の小説『闇桜』を掲載させた。次第に一葉は師である桃水に恋愛感情をいだくようになるが独身同志でも<自由恋愛>は御法度だった時代、一部ではスキャンダルめいた噂になったことで中島からも叱責され、一葉は桃水との縁を切ることにする。
何事を申合する人もなき様に覚えて、世の中の心細き限りなく、私しこそ、長かるまじき命かと存じられ候。先頃より脳病(=頭痛)にて自宅に帰り居候を、又さる人々のあしざまに言ひなすとか。
とにも角にも誠 うき世はいやに御座候 八月十日夜 御兄上様御前 なつ子
一葉は日記に自身をホタルにたとえ「草端に一蛍、よしや一時の光をはなつとも、空しき名のみ、仇なる声のみ」と書いている。代表作となる『たけくらべ』で文名を上げて間もなくの1896=明治29年11月23日に結核で死去した。わずか24歳。桃水への手紙には「長かるまじき命」と書いているが、その通り、一瞬の光を放つ蛍のような人生だった。