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“8月14日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1945=昭和20年  未明の帝都東京に空から大量の連合軍の宣伝ビラが投下された。

空がわずかに白みかけた頃、南から進入してきたB29が超高空から大量の宣伝ビラが降ってきた。ワシントンの陸軍情報部で起草されて日本語に翻訳した英文をサイパンに電送して印刷に回されたものだった。

ビラの原文は
私共は本日皆様に爆弾を投下するために来たのではありません。お国の政府が申し込んだ降伏条件を、アメリカ、イギリス、支那並びにソビエト連邦を代表してアメリカ政府が送りました回答を皆様にお知らせするために、このビラを投下します。戦争を直ちにやめるか否かは、かかってお国の政府にあります。皆様は次の二通の公式通告をお読みになれば、どうすれば戦争をやめる事が出来るかがお判りになります。
続いて「八月九日日本政府より連合国政府への通告」と「米国国務長官より日本政府へ伝達したメッセージの全文」が紹介されていた。

降伏交渉については、一般国民にはこの段階に至っても<極秘>のままだったからビラを起きぬけに見せられた木戸内府は驚愕して「こういうものを全国津々浦々まで撒かれてしまったらいまだに本土決戦を叫んでいる陸海軍の将兵たちも見ることになり万事休す」と考えて天皇陛下への緊急拝謁を申し出た。

午前10時30分、大本営は開戦以来846回目の発表:「我航空部隊は8月13日午後鹿島灘東方25浬に於て航空母艦4隻を基幹とする敵機動部隊の一群を捕捉攻撃し、航空母艦巡洋艦1隻を大破炎上せしめたり」

その敵の機動部隊からはこの日も数百機が発進して未明から関東地方の空を威嚇的に乱舞していた。挙句の<紙爆弾>である。そしてマリアナ基地からも821機のB29が飛び立っていた。米陸軍航空隊司令官カール・スパッツ将軍の「出来るだけ大掛かりなフィナーレをやれ」という命令によるものだった。

午前11時、宮中防空壕内の一室で「御前会議」が開催された。最高戦争指導会議の構成員や全閣僚、枢密院議長ら合計22名で玉座に対して3列の椅子で並んだ。鈴木首相の開式発言に続き、阿南陸相ら3人が戦争継続を奏上した。天皇はうなずいてこれを聴いたのち「外に意見がなければ私の意見を述べる」として純白の手袋をはめた指で頬をぬぐいながら「自分の決意に変りはない。戦争をこのまま継続すれば国体はおろか国家も消滅する。いま戦争をやめれば、ともかく将来のもとは残る。武装解除は耐えがたいが、国家と国民のためには、明治大帝が三国干渉のときにおいてなされたように、同じ気持ちで堪えねばならぬ。どうかみな賛成してくれ。自分みずから国民にラジオで放送してもよろしい。速やかに詔書を出してこの心持を国民に伝えよ」と途切れ途切れに、絞り出すように言った。ポツダム宣言の受諾が決まった瞬間だった。

午後11時20分、宮内省の奥、天皇の執務室に立てられたマイクに天皇が向かった。隣室が録音室、宮内相、侍従長、情報局総裁らが並び、うやうやしく頭を下げるのを合図に天皇は「終戦の詔勅」を朗読し始めた。終わると天皇は「少し声が低かったようだ。もう一度やろう」と言って二回目の録音をした。こんどは心なし声が高かった。立ち会った全員が声を押さえて泣きながら聞いた。録音技師も涙で計器が見えなくなるのを必死でこらえた。録音は30分で終了、11時50分過ぎに天皇は入御(自室へ移動)した。

一部の陸軍将校によるクーデター未遂や彼らによる天皇の録音盤奪取行動、右翼による首相官邸や私邸などの襲撃放火、阿南陸相の自決などはこのあと、翌日夜明けまでの冴えわたった月光の下で行われた。阿南は義弟に「もう暦の上では15日だが、自決は14日夜のつもりだ。14日は父の命日でもあり15日の玉音放送を拝聴するに忍びないから、その前日に死んだということにしてもらいたい」と告げた。開戦以来<帝都のいちばん長い夜>となった。

*1748=寛延元年  人形浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』が大坂・道頓堀の竹本座で初演された。

『菅原伝授手習鑑』『義経千本桜』と並ぶ<三大名作>を書いた竹田出雲、三好松洛、並木千柳の合作である。前評判以上の人気で連日の満員札止めで超ロングランになった。11月には歌舞伎でも演じられ嵐座に観客があふれた。

実際にあった事件をモデルにしたのはご存じの通りだがさまざまな<趣向>が盛り込まれた。外題は<義士の人数=47=仮名の数>から「仮名手本」とされた。初演は事件から数えて47年目、開幕の拍子木を47打つのが決まり、六段目では「金」という字が47回使われる。

とっておきのもう一つをお教えしよう。「いろは47文字」を7文字ずつ行変えして書き、行末の字を順番に読むと「とがなくてし=咎なくて死」となる。主君はつまり“はめられて死んだ”と。翌年、江戸で初演され「外題に困ったら忠臣蔵」ということでいまに至る。

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